燕京八景(北京八景:燕京とは北京の古称)とは、金の章宗が選び、清の乾隆帝が足を運び、自ら題字を書き、石碑を残した北京の景勝八選。金の章宗と清の乾隆帝の間には700年ほどの歳月がありますが、風流を好むこの二人の皇帝には、美に対して相通じるものがありました。およそ800年も昔の、金の章宗が選んだ「燕京八景」は、元、明、清と受けつがれましたが、「金台夕照」については、清代に書かれた『燕京歳時記』には、北京東部の朝陽門外五華里(2500メートル・現、南壇付近)にあると書かれていますが、乾隆帝御筆の「金台夕照」という石碑は、いまは姿を消して行方不明であり、「金台夕照」自体もどこだったのか、いろいろの説があります。
「燕京八景」が最初に文字として現われるのは章宗の明昌年間のことを記した『明昌遺事』という本で、この本に記されている「燕京八景」とは、居庸関の濃い緑を頌える「居庸疊翠」、徳勝門外に降る雨を思う「薊門飛雨」、盧溝橋の空に浮かぶ暁の月を捉える「盧溝暁月」、玉泉山に掛かる虹を描く「玉泉垂虹」、香山に白く積もった雪を愛でる「西山積雪」、北海(現在の北海公園の池)に浮かぶ瓊島の春景色を歌う「瓊島春陰」、北海の南に続く中海という池の秋景色を想う「太液秋風」、南壇あたりにあったのではという金台の夕景色を記す「金台夕照」です。
この「燕京八景」は、その後、元、明、清でも景勝の地として親しまれてきたようで、やはり風流皇帝だった清の乾隆帝(1711~1799年)は、そのすべてに足を運び、そこで題字を書き、それ石碑に残しています。この石碑の文字は、金代の「薊門飛雨」が「薊門煙樹」に、「西山積雪」が「西山晴雪」に書き換えられています。前者は明代頃から、後者は元代頃から変ったようで、いまでも北京海淀区薊門橋の近くにある薊門公園には、乾隆帝の筆による「薊門煙樹」の石碑が、香山公園には同じく乾隆帝の筆による「西山晴雪」の石碑が残っています。
八景詳細
1.「居庸畳翠」
長城の長さは6000km(1里=500mで、全長は12,000里)。長城に中で最も重要な城壁は、居庸関と山海関と嘉裕関で、これらは国家重点文物として保護されています。居庸関は秦代に着工され、北斉の時代には”納款関”、唐代には”薊門関”と呼ばれ元の時代になって居庸関の名になりました。八達嶺は、居庸関の前哨を担っています。
2.「薊門煙樹」
徳勝門外、土城の関門にあり、昔の薊邱の場所だといわれています。楼閣は既に無く、門が小高い二つの丘の形で残っているだけです。緑濃き樹木が茂り、燕京八景に選ばれましたが、今は、木々は枯れ、唯一乾隆帝の石碑だけが残っています。
3.「盧溝暁月」
北京市より西南、へ15キロほどの郊外の盧溝橋。1937年7月7日夜、日中全面戦争のきっかけとなった「盧溝橋事件」の現場です。この橋は、芸術的価値が高く、北京で現存する最古(金代1192年建造)の石造りの橋です。欄干の石獅子はすべて違った姿をしており、橋の脇には、清の乾隆帝による「盧溝暁月」の石碑があり、金代“燕京八景”の一つであったことを示しています。この白い石橋は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」の中で世界でもまれに見る美しい橋と紹介されています。
4.「玉泉垂虹」
玉泉山に掛かる虹を描く
5.「西山積雪」
香山に白く積もった雪を愛でる香山の総面積は160ha、香の竈の形に似ていることからその山の名前が付けられました。北京の有名な森林公園で、秋になると一面の紅葉で、火が燃えているかのように美しく見えます。
6.「瓊島春陰」
金時代に湖水を掘って瓊島を作りその上に亭子が建てられ、元時代に三次にわたり、島は拡張された。その後清国乾隆帝時代、雄大且つ精巧な皇室の森が完成するに至った。1651年、「白塔」のチベット仏教寺院が建設された。
7.「太液秋風」
現在、中国の要人の住む中南海。その中海の秋景色を想う「太液秋風」
8.「金台夕照」
南壇あたりにあったのではという金台の夕景色を記す。