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景徳鎮磁器

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景徳鎮市は、千年以上前から良質な磁器を創出した磁器の都、“磁都”として知られている。歴史文化的に中国を代表する最も有名な磁器を買い求めるために、国内外から多くの人々がこの地にやってくる。景徳鎮には、世界が認める価値ある磁器を創出した湖田窯などの名窯が点在している。

景徳鎮の恵まれた自然環境は、この地方都市が磁器業の中心に発展した大きな要因のひとつである。景徳鎮は四方を山に囲まれ河川も豊富である。昌江の各支流は揚子江に繋がり、陶磁器の原料や燃料を運び入れ、また完成した磁器産品を運搬するのに好都合であった。これは、早くも唐時代(618-907)から、景徳鎮が中国全土、東南アジアにまで広まった理由のひとつである。景徳鎮磁器の原料は、白色粘土のカオリンと地元の山麓で産出する良質な陶土である。

景徳鎮では、後漢(25-220)時代から磁器の生産が始まったと伝えられている。唐時代(618-907)には磁器業はある程度発達し、国外に向けて輸出されるようになった。宋時代(960-1279)には、磁器製造業の中心地として大きく栄えた。景徳鎮の原名は新平で、後に昌江の南岸に位置することから、昌南鎮と呼ばれた。宋代景徳年間(1004-1007)の真宗皇帝は昌南の美しい磁器に魅了され、宮廷から陶磁器生産を管理する役人を派遣する。すべての磁器の底には“景徳年製”の年号が記され、真宗皇帝の詔勅によって昌南鎮は景徳鎮と改名された。

宋代末期、戦乱を逃れた北方の定窯などの職人が移住し、技術は大きく向上した。景徳鎮は青磁と白磁を生産するようになり、宋代には有名な青白磁が生まれた。青白磁は影青磁の名でも知られ、この時期に景徳鎮で生産された磁器はほとんどが青白磁である。

元時代(1271-1368)には青花磁の技法が完成し広く知られるようになる。青花磁器の茶具などが中国国内だけでなく国外にも輸出された。景徳鎮の窯は300を超え、様々な色の釉薬が研究された。景徳鎮は磁器工業の中心として栄え続け、明時代(1368-1644)に最盛期を迎える。様々な技術技法が新しく生まれ、創作の幅が広がって各種の磁器が創出された。景徳鎮には元・明・清代にわたり宮廷ご用達の“官窯”が置かれ、多くの磁器が朝廷に納められた。清時代(1644-1912)には、各地の磁器名手が景徳鎮に集まり、更に斬新な磁器が生まれた。

文化大革命の頃、他の伝統工芸と同じように景徳鎮の磁器工芸も大きな打撃をうける。芸術性よりも実用性を重視した磁器が大量生産され、優れた職人は農村に送られてしまった。景徳鎮磁器の品質は下がり、現在も伝統的な装飾が施された美術的な工芸品は一部でわずかに作られているのみである。

上質な景徳鎮は、「玉のような白さで、鏡のような明るく輝き、紙のように薄く、はじくと鈴のような音がする」といわれている。

景徳鎮には、様々な色、柄、異なる装飾技法の磁器を創出しているが、最も有名なのは元代に生まれた青花磁器である。青花とは白の素地にコバルトを含んだ青色の顔料で模様を描き、透明な釉をかけて高温の窯で焼成する技法である。白地に青の対比が美しく、古雅で上品、清楚な趣である。青花磁は江戸時代に日本に伝わり、伊万里焼、有田焼の “染め付け”で知られている。

青花の前身といえるのは宋代の青白磁器で、影青の名でも知られる。白地の土台に、片切り彫りの“刻花”や陽刻型押しの“印花”で文様をつけ、青みを帯びた釉を薄くかけたものである。彫り込まれた部分の釉は厚くなるため影のようになり、文様が浮かび上がる。景徳鎮で北宋代に産出された青白磁器は薄く、切れ味の良いシャープな文様で洗練された美しさをもつ。

清代康熈帝の頃には、ヨーロッパの技術を取り入れ、各色で淡く濃淡をつけた繊細な模様の“粉彩”が生まれ、雍正帝年間には卵の殻のように薄く太陽にかざすと裏面の彩色が透けるという“琺琅彩磁”や“薄胎”などが生まれた。

景徳鎮の陶磁器は、中国だけでなく世界の磁器工芸界でも極めて重要な地位を確立している。陶磁器は英語でChinaと呼ばれるが、その由来は景徳鎮の古名、昌南(Changnan)だという説もある。現在も、景徳鎮では住民の四割程度が陶磁工芸に関わる仕事に従事し、陶磁器の工場、工房の数は五千以上にのぼる。市内には景徳鎮陶磁館が設立されており、館内では古代から現代の著名な陶磁器を見学することができる。景徳鎮の磁器は、世界からその技術の高さと芸術性を認められ、多くの人々を魅了している。

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