西太后のジョギング場、頤和園・昆明湖

2017-10-26

清朝の庭園造りの本舞台は、なんといっても北京の西郊外でした。ここで「三山五園」といわれる庭園造りをすすめたのです。円明園、暢春園、香山靜宜園、玉泉山靜明園、万寿山清イ園の「三山五園」で、このうち現在では公園になって市民に開放されているのは円明園遺跡公園、香山公園と頤和園の三カ所です。

頤和園の前身は万寿山清イ園で、乾隆帝が母親の60歳の贈りものとして造った庭園です。光緒12年(1886年)には西太后が頤和園と名を変えて、自分専用の離宮としました。1860年の英仏連合軍の北京侵入で破壊された万寿山清イ園の跡に、海軍が軍艦を購入するための巨額な資金を流用して、大がかりな改修工事をしたのです。

それも束の間、1900年の八カ国連合軍の北京侵入の際、頤和園はまたも破壊されてしまいます。西太后は北京を脱け出して西安に逃れ、2年後の1902年に北京に帰ってきました。そして、また多額の費用をかけて頤和園の造営を行い、1903年から1908年に74歳で死ぬまで、ほとんどの時間をここで過しています。

なにしろ、面積293ヘクタールというたいへんな広さの頤和園です。そのすべてをご紹介するわけにはいきませんので、九牛の一毛かも知れませんが,西太后お気に入りの散歩コースをご紹介しましょう。西太后の女官の徳齢が、西太后から「今日はいい所に連れていってあげよう」と言われ、お供をしたコースです。

まず、西太后が住まいとしていた昆明湖の東南の岸辺にある楽寿堂を出て、昆明湖沿いに700メートルも続く長廊の散歩です。長廊は文字通り長い廊下で、その梁欄には杭州の西湖の風景など、1万4000枚の極彩色の絵が描かれています。

ここをかなりの早足で散歩したようです。西太后風のジョギングだったのでしょう。徳齢は「陛下はとても足早で、急いで歩かないとお伴できませんでした」と語っています。

この長廊の西の端の昆明湖のほとりには、白い大理石で造った船が浮かんでいます。いつまでも沈むことない清王朝を象徴していたそうで、清晏舫とよばれています。ここでお迎えの船に乗り込み、船遊びです。船の上では、まわりの船と競争したり、リンゴをぶつけあったり……。

遊びあきると、船を昆明湖の東岸につけ、待たせてあった駕籠に乗り換え山登りです。そして、かなりの勾配の坂道を景福閣に向かいます。景福閣は万寿山の東の高台にある小さな楼閣で、西南に広がる昆明湖はじめ四方の景色を眺めることができる西太后お気に入りの場所でした。

西太后はここで月見をしたり、雪景色を楽しんだり、外国の使節と会ったりしています。西太后が選んだだけあって、ここでの一休みは最高です。西太后のお供をして頤和園のいい所はすべて見て歩いた徳齢も「景福閣がいちばんです」と折り紙をつけています。

ちょっと歴史は下りますが、1949年1月31日の北京の平和解放の前夜、東にひろがる北京の市街を見下ろしながら、ここで北京の平和解放をめぐる中国共産党と中国国民党の交渉がありました。大きな歴史の舞台でもあったのです。

「中国網」より

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