北京の歴史にまつわる話、ドルゴンと清・順治帝

2017-12-14

清の三代皇帝順治帝(1638~1661年)は、順治元年(1644年)9月、中国・東北地方の瀋陽から北京入りしました。その一月余り後、つまり11月の初めに、一団の日本人が、順治帝と同じ道を通って瀋陽から北京に着きました。国田兵右衛門ら15人です。彼らはこの年の4月に、日本の越前の三国浦(現在の福井県坂井郡三国町)を船出し、松前(北海道南部)に向かう航海の途中、大風に遇って、現在のロシア領シベリアのポシェット湾に漂着しました。そこで現地の人々に捕えられたのです。一行は、清の首都であった瀋陽に送られたあと、さらに北京に送られてきたのです。

国田兵右衛門らは、北京に1年ほど滞在し、翌年11月に北京を離れ、朝鮮経由で日本に帰っています。日本に着くとすぐに江戸に呼ばれて、取調べを受けました。そのときの記録が見つかり、それが『韃靼漂流記』(平凡社)という本にまとめられているのです。日本人の目に映った当時の清、そして北京の様子がうかがえる貴重な資料です。すこし抜き書きしてみましょう。

瀋陽から北京の道については「北京までの道平に御座候」と書いています。順治帝の一行が通った直後だったので、かなり整備され、平坦だったのでしょう。「韃靼より引越候男女、35、6日の間、引も切不申候」という文字も見られます。35、6日かかった道中、北京に向かう満州族の役人やその家族たちの姿を、毎日のように見かけたようです。清の政権強化のため、遷都したばかりの北京に、多くの満州族を送り込んだのでしょう。

山海関では万里の長城を目にしています。「韃靼と大明の国境に石垣を築き申候。万里在候よし申候」と記されています。国田兵右衛門は、万里の長城を目にし、それを最初に日本に伝えた日本人かも知れません。北京では、ときの権力者である摂政王ドルゴン(1612~1651年)にも合っています。順治帝の叔父にあたるドルゴンについて「細く痩せたる人に御座候」と書き、ドルゴンが親しく声をかけてくれた様子も記しています。

紫禁城にも入ったようで、午門近くの風景を「大手の御門には、大成石橋五つ並て置申候。……欄干には龍を彫付申候……」と書いています。ところで、国田兵右衛門らが北京を離れ帰国するにあたって、順治帝は朝鮮の国王、李(仁祖)に「一行の日本帰国を助けよ」という勅諭を送っています。次のような文字が見られます。「其の父母妻子を念い、遠く天涯を隔てたることを憫惻し、ラネに使臣を随はしめ、朝鮮に往かしむ。到着の上は船隻を備えて日本に送還し、該国君臣に朕が意を知らしめよ」。

文・李順然

「人民中国」より

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