ラストエンペラの妃婉容が暮らしていた北京・「帽儿胡同」

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北京語は中国官話の代表的な方言であり、特徴は名詞の語尾の母音に「アル」(児、簡単字:儿、ピンイン:r)という舌を巻く音をつけて発音するところです。今儿(jin er)=今日、明儿=(ming er)明日、花儿(hua er)=お花などの言葉は、北京人に親しみを感じさせ、老北京ならではの胡同(フートン:北京の細い路地)文化の1つです。

北京には、名前に「儿」が使われている胡同が数十本があります。例えば、東城区交道口にある菊儿胡同や雨儿胡同、西城区後海に近い鴉儿胡同など、どれでも長い歴史を持つ胡同ですが、今回はその中で最も物語のある「帽儿(mao er)胡同」をご紹介します。



帽儿胡同、北京市東城区旧鼓楼と地安門外大街の間に位置し、東西へ伸び、全長は585メートルに達します。歴史資料を調べてみて、驚きました。

35号院と37号院は、中国の末代皇后である婉容(えんよう)の元実家です。彼女の父親は当時の内務府大臣、郭布羅・栄源で、「女の子も男の子と同じように学校へ通うのが当たり前だ」という考えを持つ、見識のある方です。婉容は子どもの頃からこういう教育環境のもとで、北京にあるアメリカ人経営の教会学校に通いました。ピアノや英語のほか、ジャズ音楽にも深く興味を持つ多才さ。このように美貌、才能、家族の力が結集された女の子は、皇后として最適な人材でした。1922年に婉容は第12代清朝皇帝、つまり末代皇帝の愛新覚羅・溥儀(あいしんかくら・ふぎ)と結婚します。当時17歳でした。世間は、婉容が皇帝に嫁ぎ、安定した生活を送るだろうと羨望しますが、彼女にとって人生の悲劇の始まりでした。24年後、婉容はアヘン中毒の禁断症状と栄養失調のため、中国吉林省延吉の刑務所で病死しました。

北京語の中で「一人得道(yi ren de dao)鶏犬昇天(ji quan sheng tian)」ということわざがあります。「一人が権勢を得ると、その一族郎党までも出世する」という意味です。婉容が皇后に冊封(さくほう)されたおかけで、彼女の元実家が位置する帽儿胡同は一躍スポットライトを浴びるようになりました。現在では一般住宅になり、平屋の南側には2つの扉が作られ、帽儿胡同の35号院と37号院になりました。

胡同の奥には、もう1つ立派な公邸があります。それは光緒年間(1875年ー1908年)、武英殿大学士だった文煜(ぶんいく)の屋敷「可園」です。5つの塀で囲った中庭のある住宅で、敷地面積は1万1千平方メートル。そのうち、太湖石、築山、池、水辺のあずまや、そしてアーチ橋、竹園などが配された蘇州式の住宅で、装飾も精美で厳密に選定され、自家の庭園の中でめったにない四合院です。残念ながら、ここは一般に公開されていません。その美しさを自分の目で確認することはできませんが、逆に思いっきり光景を想像してみるのもいいかも知れませんね。資料によりますと、そのうちの13号院は北洋軍閥の馮国璋が住んでいたこともあったということです。現在、この公邸は保護文化財に指定され、外交部が所有しています。

これは終日騒がしい地安門大街の隣に位置する静寂の帽儿胡同です。その濃密な並木道の下で、色あせた壁と扉の向こう側には、時代の変遷とともに歴史に残った物語が数えられないほどあります。

(写真は「東城旅行」の公式ウェーボーから:东城旅游

(取材:馬ゲツ)

「中国国際放送局」より

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