北京の中軸線に沿って観光しましょう♪

2020-06-26

北京の中軸線はすごく長くて、永定門から鼓楼に伸びています。道路の中心と両側の建物に基づき、この道はいくつの部分に分けられています。この仕切りによって、そこにある建物の種類、そして内包する文化的な意味も異なります。

永定門から天橋まで

永定門から天橋までの道路の南端と北端は永定門城楼と天橋で、東側が天壇で、西側が先農壇です。壁は至る所まで灰色の「大城煉瓦(明・清時代の特製煉瓦)」敷きで、壇のドアは朱色を呈しています。北端は有名な天橋で、明・清時代の皇帝が祭祀を行う際に、必ずここ通ります。

中軸線の南端とした永定門は、外の城の中央にある城門は1957年に取り壊し、2004年からの再建を経て、2009年に完成しました。永定門から天橋に至るこのコースは、皇家の祭祀文化をもとに、静かで厳かな雰囲気を成しています。

♪永定門城楼:中軸線の南起点

永定門城楼は明・清時代における北京城内の中軸線の南のスタート地点であり、北京外城の七門で最も大きなものにもなります。その名には皇城が永遠に安定であるようにとの願いが込められています。

過去において、永定門は北京市内と北京の南部分を繋ぐ重要な通路であったので、繁盛な商業状況を呈していました。永定門の外は、北京外城城門の中で景色が最も美しい所に誇っています。永定門はもともと箭楼、瓮城と城楼からなっていたが、20世紀50年代に撤去された後、中軸線の南終点と南城の重要なシンボル建物を再現するために、2004年に永定門城楼を再建しました。

現在に至って、再建済みの永定門城楼は、北京古城での完全な中軸線景観を再現させました。城楼の前にある空き地では、草木を植えることで、幅広い芝生を整備します。また、護城河は透き通っており、一変した永定門城楼はその河の水と互いに照り映えて、北京の目新しい景色をなしました。

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住所:北京市東城区永定門内大街

♪北京城の南方向に構えられた唯一の皇家御苑

「山川壇」とも称される「先農壇」は、明の永楽18年(1420年)に創建されて、明・清時代の皇帝が山川、神農などの諸神を祭る重要な場所でもあり、皇室より城南に設置された最初且つ唯一の皇室御園です。先農壇は内壇と外壇から構成され、南北全長がほぼ天壇に等しいが、東西幅が僅か天壇の三割で、総面積が約86万平方メートルに達します。

もともとは広い壇ですが、壇内には天神壇、地祗壇、先農壇、太歳壇、観耕台、具服殿、神倉などの重要な建築が設置されたうえに、種々の古樹・名木・花草にも囲まれているので、静かで青々と茂った環境を構築しました。先農壇全体は内塀と外塀の二重の塀に囲まれ、上から見ると「北圓南方(北は丸く南は四角い)」の形となりました。壇内の建築は先農壇、天神地祗壇と太歳殿の三部分に分けられています。

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住所:北京市宣武区東経通り21号

天橋から正陽門(前門大街)

「前門大街」は北京有名な商業街で、北京の中軸線に位置し、北は前門月亮湾から、南は天橋路口まで、天橋南大街と繋いています。今、前門大街の街沿い店は、清の時代以降に形成したものです。明清から民国まで、全て正陽門大街と称し、民間では前門大街と呼んで、1965年に正式に「前門大街」と命名されました。

前門大街は北京内城に入る重要な通路で、前門商業圏の中枢であり、大柵欄、鮮魚口、西側沿、打磨廠、廊房頭条、観音寺街などを繋ぎ、とても特徴のある重要商業圏が構成できました。永定門中の厳粛と安寧と比べて、ここはたくさんの貨物が集まり、人の声が沸きまい、繁栄が非常にさかんでいます。

♪天橋:再現した景観

かつて「龍の鼻」として中軸線を守り、龍須溝を跨った「天橋」は消えてからの80年後、2013年12月に再び人々の注目を集めました。史料の記載によると、天橋は明・清時代の皇帝が天壇で天を祭る際に、必ず通る道でした。天を祭る際の皇帝通行路という意味から、天橋と名付けられました。以降の歴史の変遷のなかに、天橋は何度もの改築を経たが、全般撤去された1934年に、「有名無橋」の時代に入りました。

新規建築した天橋は天橋南大街と天壇路が交差する南側の緑化地域に位置されるが、古い天橋は永安路と天壇路が交差する場所、つまり実の中軸線の上に構えられました。この地域で確かに橋があったことは考古学者にも実証済みがが、交通に影響を与えないように、天橋は南へ40、50メートルほど移され、緑化地域で再建されました。新築された天橋は一つの青白石景観アーチ橋と二つの石碑からなっており、景観橋は長さ14.4メートル、最大幅8メートル、内部直径4.48メートルのみです。

「南端の正門より北へ行くと、ほぼ対称している天壇と先農壇の建設物が中軸線の左右にあります。軒を連ねる長い大街を通り、珠市口の辻に至ると、内城における初の重点地——雄大なる正陽門楼に向かいます。長さ百メートルに伸びる門前の辺りでは、大きな牌楼と石橋が道路を遮って、この初の重点地に対して前衛の役を果たしています。」と梁思成先生のこの記述には、北京中軸線の配列を詳しく記載して、天橋こそがこの軸線にある重要な継ぎ目の一つだということが分かりました。

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住所:北京市西城区天橋南大街

♪北京坊で昔の北京を体験

「北京坊」は大柵欄歴史文化保護区の東北側に位置し、天安門から約800メートル、東西は煤市街から珠宝市街まで、南北は西河沿街から廊房頭条までです。全体は「メインストリート一つ、広場三つ、胡同がたくさん」といった構成で、総面積が3.3万平方メートルで、建築面積が14.6万平方メートルです。隣に故宮博物院、国家大劇院、中国国家博物館など有名な文化場所があります。

始めての歴史文化保護街区集落設計プロジェクトとして、北京坊は街区歴史風貌を維持し、建築スタイルでは民国特徴を続き、もともとの胡同の外観を復元し、都市の歴史的装飾を極めます。その中に歩いたら、昔の時代に戻ったような感じがします。そして、このプロジェクオは托謙祥益、塩業銀行旧跡、交通銀行旧跡などの文化保護と歴史建築を基本として、百年勧業場を中心に、有名建築士7名が設計した街沿い単体建築8棟を展開し、市民を歴史と現実の融合した文化空間に引っ張り込みます。

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住所:北京市大柵欄歴史文化保護区東北側

正陽門から天安門まで

正陽門から天安門までの間は「天安門広場」です。その敷地面積は44万平方メートルで、100万人の盛大集会にも対応でき、世界最大な都市広場です。天安門広場は近代中国重大な歴史事件の発生地で、中国人民が衰弱、屈辱から奮闘、再起の歴史を全部見た証人だと言えます。歴史はここに累積し、また現実と融合します。

♪箭楼が設けられていた正陽門

500年あまりの歴史を持つ「正陽門」の俗称は「前門」で、元の名前は麗正門です。北京城内城の正南方向で、天安門広場の南縁・前門大街の北端にあり、北京城の南北中軸線に位置されます。現在の正陽門には城楼と箭楼がまだ残っています。

正陽門は煉瓦作りの城台に城楼を建てられ、3047平方メートルの敷地面積を誇り、城台の高さが13.2メートルで、南北方向には高さ1.2メートルのパラペットがあります。

城台の真ん中に小さい門があり、またその門に、「千斤闸(鉄の皮に囲まれてる門の表面は全部鉄釘を打ち付けられる)」が設けられます。城楼は二階建てで、城楼の楼上と楼下とも四面に門があって、横向きでは七間(41メートル)で、縦向きでは三間(21メートル)です。上下には全て回廊があります。また、楼の幅は36.7メートルで、奥行は16.5メートル、高さは27.3メートルです。城楼全体の高さは42メートルで、北京全ての城門の中で最も高くて大きいだと思われます。そのほか、正陽門城楼の南に箭楼が設けられ、その箭楼形式は比較的に特別で、ずっと老北京の象徴と見られています。

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住所:北京市東城区天安門広場の最南端

地安門から鐘鼓楼まで

地安門は皇城北門で、天安門と南北相対し、天地平安を意味しています。元は地安門外大街の南端に位置されたが、現在はもう存在しません。そして、地安門外大街の北端に位置されるのは鼓楼だが、また鼓楼の後は古代では時間を示す建築である鐘楼です。これで、鼓楼と鐘楼は前後に縦線で配置されて、気魄は非常に雄大です。その間には一つ大きくない広場があって、民国時代に庶民の市場として使われたが、その後取り壊されて現在の様子に回復されました。

♪時間を示す建物の鐘鼓楼

鼓楼は北京中軸線地安門外大街の北端に位置されて、古代では時間を示す建物です。その裏面は北向き、正面は南向きで、高さ約46.7メートル、東西長さ約56メートル、南北幅約33メートルで、重檐三滴水木造構造楼閣の建築です。元代の時、鼓楼は斉政楼と称し、大都の中心ー明清鼓楼の西、つまり今日の旧鼓楼大街の南口に建てられたが、明朝永楽十八年、北京を建設する際、鐘鼓楼を新たに作りました。

清順治十一年、鐘鼓楼が火災で焼かれ破壊され、乾隆の時また再建されたが、八国連軍が北京を侵入する際、二つの楼は再び破壊されました。そして、民国時期に鐘鼓楼が一般公開され、民国十三年に明恥楼に改名され、1957年に二つの楼は北京市市級文化財保護対象に指定され、1984年に再度修繕されました。1987年と1988年に二つの楼は相次いて公開され、その後全国重要文化財保護対象に指定されました。

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住所:北京市東城区地安門外大街の北端

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