日本人ドラマー・ファンキー末吉さん

2018-07-16

中国のロックミュージックが誕生して今年で30年を迎える。今回は、中国ロックの黎明期に北京を訪れ、四半世紀にわたって中国ロックの発展に貢献し、外国人でありながら中国ロックの歴史に名を刻む日本人ドラマー、ファンキー末吉さんをご紹介したい。

中国ロックは、今から30年前の1986年5月9日、「中国ロック界の父」と呼ばれる歌手・崔健(ツイ・ジェン)が、連合国国際平和年を記念して北京工人体育館で開催された第一届百名歌星演唱会(第一回100人歌手コンサート)で「一無所有(俺には何もない)」という名曲を歌ったときから始まる。後に中国ロックは紆余曲折を経ながら広まりを見せ、米国ロックの40年の歴史をわずか10年の間に駆け抜けていった。その黎明期に当たる1990年に北京を訪れ、中国ロックの発展を支え、その盛衰を見届けてきた人物がファンキー末吉さんだ。現在でも中国の一流音楽プロデューサーらと共に数々の名盤のレコーディングを手がけ、著名な中国人歌手のバックバンドを担う日々を送っている。

「90年の北京は、街に長髪の若者もいなければ、ロックを演奏できる場所もやや限られていた。当時偶然出会ったのが黒豹(ヘイバオ)というバンドで、そうした環境の中でロックに情熱を捧げる彼らに感銘を受けた」と当時の様子を振り返る。日本語が乗るとどうしてもJ-POPになり、ニュアンスがやや変わってしまうのに対し、中国語のロックというものが「好聴(ハオティン・聴き心地がいい)」だったことにも大きな魅力を感じたという。

当時黒豹でキーボードを担当し、後に中国での音楽活動の苦楽を共にしてきた「戦友」が、現在中国で最高峰の音楽プロデューサーとして活躍する欒樹(ルアン・シュ)だ。当時メンバーで唯一英語が話せたことが交流のきっかけだった。今日までの26年間の「ファンキーの中国活動史」を如実に知る人物でもある。欒氏は、「ファンキーさんは我々の師範であり兄でもある。彼の音楽に対する姿勢や熱意は、中国のミュージシャンの誰もが見習うべき雛形だ。中国には経済的に困窮する若手ミュージシャンがたくさんいるが、そんな若者たちに対し一度たりとも金銭的要求をすることなく無私の精神でサポートを提供してきた。コンサートでも彼がいれば安心できる。彼の存在は質の保証そのものとなっている」とファンキーさんの貢献を讃える。

しかし、一方的に献身してきたわけではなく、むしろこの26年間に中国から与えてもらったものの方が大きいとファンキーさんは言う。「日本では爆風スランプの一人として、芸能人のように扱われ、ひどい時にはサインを求められても『爆風で何をやっている人なんですか』と尋ねられる始末。ドラムの技術など評価されない居心地の悪い思いを長年してきた。しかし、中国に来てみると、爆風スランプという存在など誰も知らず、純粋にドラムが上手い人としてスポットが当てられ、外国人でありながら中国ロックの歴史にその名を刻むドラマーとなった。日本ではバンドの名声の裏で虚像だけが独り歩きし、誰も見てくれなかった実像を中国でやっと手に入れることができた」と胸の内を明かす。

子供の頃に抱いた夢もまた、中国の地で実現することができた。「レコードでロックを初めて聴いた時、スピーカーの向こうで演奏する人たちは神様だと思った。『俺もこんな神様みたいな人になりたい』というのが子供の頃の夢だった。それが90年に中国に来て、曲のレコーディングに携わるようになると、中国の80後(1980年代生まれ)の若者が、我々がレコーディングした曲を聴いて『こんなドラム初めて聴いた』と言って感動してくれた」。夢が叶った瞬間であった。

様々な喜びや感動を胸に、ドラマーに憧れる中国の若者たちには身をもってミュージシャンとしての生き様を示してきた。「最初に譜面を書く」「遅刻をしない」…。最初はそんな些細なことから始まった。ドラムのテクニックもその姿勢で示してきた。今年57歳のベテランドラマーが叩くドラム演奏は、若手顔負けのエネルギッシュなもので、熟練のテクニックは「歌うドラム」と評されている。「私ももう歳。どんなに小さなステージであろうと、これが最後だと思って叩いている。もちろんだからといって毎回奇跡を生むような作品になるわけではないが、毎回これが最後かもしれないという意識で叩いた作品を聴いた若いドラマーが何かを感じてくれると思う。『ファンキーのドラムは何が違うんだ』と考え、経験を重ね、私のような歳になったときにはその違いに気づくだろう。そしてその時には今の私のレベルを超えていることだろう。それが先輩として私がこの国の若者に残せる一番大きなものだと思うし、そのプレッシャーがある」と語る。

ファンキーさんはこれまで、中国のロックファンの心を打つ数々の名盤をレコーディングしてきたが、「音楽はその国の人にしかできない」とも言う。北京を訪れ、「中国人のために音楽をする」と決意して音楽活動をするようになって13年が過ぎた2003年のある日、著名な歌手の許巍(シュー・ウェイ)のアルバム「時光漫歩」をレコーディングしている最中、「中国人になった」ことをファンキーさんははっきりと覚えている。「言葉、歴史、人々の暮らし…。音楽には空気感やその国で生まれ育った人にしか分からない感覚がある。少し前の世代の人々であれば、昔は貧しくて、大きくなったら高度成長の波に呑まれ、落ちこぼれ、なんてちっぽけな人生なんだと感じながら、そんな時代を乗り越えて生きてきたからこそ、この曲で涙する。中国人の気持ちが分かった瞬間、中国人が泣けるように叩くことができるようになった」と続ける。「中国人になった」からこそ、ここで暮らす人々の琴線に触れる、ロックファンの心を動かすドラムが叩けるのだ。「歌うドラム」と評価される理由はここにあるのかもしれない。

そんなファンキーさんの「次なる夢」は「北京で死ぬ」ことだ。「この地で出会った仲間がいるから」とロッカーの顔を見せていた。(文・岩崎元地)

「人民網日本語版」より

人民網日本語版

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