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北京の名スポット恭王府の庭園と主殿

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宮門は恭王府の正門で、1番目の庭園にあります。ここでは、清時代の親王級の皇族が住む建物が見られます。赤い漆が塗っている正門には、金色の釘が七行九列に打たれています。皇居の九行九列だけに次ぐレベルです。門の前には、石獅子が二頭立っています。親王級の皇族だけが使えるものなので、非常に立派です。邸宅の中部にある主な建物の屋根は全て青い瑠璃瓦で作られ、親王の高貴な身分や地位を表していると言えるでしょう。



中部の二番目の庭園は、「十字院」と呼ばれています。この庭には南向きの門が三つあります。入る際に、身分や地位によって分けられ、身分の高い人は真ん中の門、低い人は両側の門を利用して庭園に入ります。来客の身分によって入る門を分ける理由としては、紫禁城の中に皇帝と大臣は同じ門を利用してはいけないというルールがあり、それを守るために分けられるのです。

邸宅の中部の三番目の庭園にある主殿は、「銀鑾殿」と呼ばれており、清時代の王府建物の中で一番大切な建物として扱われていました。紫禁城の太和殿、即ち金鑾殿の地位と機能に相当します。銀安殿は常々王府内部の重大なイベントの開催会場として用いられていました。当時は、殿の真ん中に親王の王座が置かれ、その後ろに親王用の屏風も配置されていました。また、「冊宝」という皇族が公布された就任令、昇進陵や印鑑などが殿内に並べられていました。

多福軒は邸宅の東部にある三番目庭園の主殿です。恭親王時期に主な応接間とされて、鹹豊皇帝が書かれた「多福軒」の額が門の上に掛かれているため、「多福軒」と名付けられました。恭親王は多福軒にて英仏侵略軍が交渉に派遣した代表と会見したことがあるとされています。つまり、この殿は悲しい歴史的事件の目撃者であったと言えるでしょう。和珅時期には、東部は息子の豐紳殷德とその妻固倫和孝姫様の住宅となり、ここは書斎や応接間としても使用されるようになりました。

錫晉齋は西部の四番目庭園の主殿であり、唯一の面積が七つの部屋に相当しい大きな殿です。恭親王時期に、西晋王朝の文学者陸機が書いた書道作品の「平復帖」という宝物がここに保存されていました。慶王永璘の時期には、この殿は「慶宜堂」と名付けられました。和珅時期に和珅は住宅として使用し、「嘉楽堂」と呼ばれ、乾隆皇帝が書かれた「嘉楽堂」という額がその名前の由来だそうです。嘉慶皇帝が定めた和珅の二十個の罪の中の第十三番目の罪は、「ルール違反の楠木製の殿作り」で、その楠木製の殿はまさに嘉楽堂を指していました。その金付けの楠木が用いられた室内の装飾は今でも良好な状態で保存されており、国宝とも言えます。

文・北京旅行網

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