北京名所、清代の「恭王府」

2019-02-26

恭王府は北京で規模最大、最も完全な形で残る清代の王府。什刹海の西北、前海西街17号にある。全国重要文化財。乾隆年間には大学士である和珅の邸宅だったが、嘉応四年(1799)に和珅が罪に問われため、邸宅は没収され慶群王に賜与された。そして咸豊元年(1851)に、恭亲王である爱新觉罗•奕訴に賜与された。

恭王府花園の入り口に西洋式の門がある。漢白玉に彫刻を施したものでは国内最大の門。形は流れるような西洋式の風格を有しながらも、中国古代の彫塑の美が極め尽くされている。西洋の味わいが色濃いなか、中国の独自色も感じられ、まさに建築物のなかの逸品と言えるだろう。

ちなみにこんな題字がある。外題は「静、太古を含む」。内題は「秀、恒春を汲む」。喧騒のなかに太古の幽玄な境地があり、道家の趣に富んでいる、という意味である。花園は「翠錦園」と言い、俗に恭王府花園と呼ばれている。園内を回ると、まるで山水の間を歩いているかのようだ。府邸に呼応するように、花園も東、中、西の3路に分かれている。中路は入り口に西洋式の建築風格をたたえる漢白玉のアーチ形石門があり、康熙帝の御書「福」の字の碑を中心に、前に独楽峰や蝙池、後ろに邀月台、蝙庁が並び、その配置は非常に味わい深い。

東路にある大劇楼。ホールの装飾は非常に秀麗で、藤の蔓が枝にまつわりつき、紫色の花が咲き誇り、まるで藤蔓の棚の下で観劇しているかのようだ。劇楼の南端にある怡神所、曲径通幽、垂青樾(木陰)、吟香醉月、沁秋亭の五大景勝は必見。古木が天を突き、怪石が林立し、山と水がめぐり、東屋と高殿が並び、回廊と道が曲折している。月のもとで花園の趣はさらに千変万化し、優雅な地となる。

花園の正門前は、高さ約5メートルの北太湖石の「孤賞石」であり、庭園にやや趣を添えている。庭園の専門家は目隠しと風除けの役割を同時に果たしていると話す。

また、王府には「凹」の形をしている池がある。こうもりに似ていることから、名前は「蝙池」。「蝙」と「福」は発音が同じであるため、人びとの神の加護を得たいという願望にうまく調和している。そのため、庭園を修復した際に至るところにこうもりに似た図案が設けられた。

水が西から東へと流れるのは資産の流失を意味するため、蝙池の水は東から西へと流れている。蝙池の周囲にノニレの木がある。春が来るたびに、小銭に似た小さなノニレの実「榆銭児」が次々と池に落ちる。「銭」が池に落ちることから、蝙池は「聚宝盆」(宝が集まる盆)とも呼ばれ、「福」と「財」の意があるので、人々の富貴と吉祥を加護できると言われる。

蝙池の後ろ(北側)のホールは「安善堂」と呼ばれ、これは後ろの花園の中軸線上にある中心的な建築物。もともと恭王府が重要な賓客をもてなしたところだった。安善堂の前に「抱厦」、脇に回廊があり、東西の「配房」(正房)と結ばれている。羽を広げたこうもりのようで、「蝙」なり、「福」なり、前面の蝙池と互いに映し、配置の精密な広壮な建築物である。

花園西路の景観は水が主体。陸を舟とした、古人の画舫(美しく飾った舟)の意を模して湖心亭が建てられた。碧水の上で、蓮を観賞し、釣り糸を垂れ、詩を吟じ、絵を描く。まさに江南山水の境地に富んでいる。

清代の北京では、住宅に流水を引き入れるには、皇帝の特別の許可が必要だった。恭親王府はこの特別の光栄を得た数少ない王府の一つ。水中の亭は宴に賓客を招待する際に使用された。和珅は園を造る際、許可を得ずに流水を引き入れたが、これも和珅の死罪の一つとなった。

著名な大劇楼は純木造建築。清代、南方の官吏は恭亲王の関心を買おうと、とくべつに南方の名匠に造らせたと言われる。南方と北方では気候に差があるので、純木造建築が北方で百数年から今日まで完全な形で保存されているのは非常に珍しい。劇楼のホールは非常に高大だが、音響効果に非常に優れ、最も離れたところでも、舞台上の歌詞ははっきりと聞こえる。

不思議に感じさせるのは、ホールの上方いっぱいに逆さに吊るされた藤の蔓が描かれていることだ。もともと当時、このホールのような劇楼は北方では非常に少なく、慈禧太后の有名な大劇楼でさえ庭で座って観劇した。恭亲王は罪を得ることを懸念し、天井いっぱいに藤の蔓を描き、藤の蔓の棚でホールではない、との意を示そうとした。実に並々ならぬ苦心が窺える。

沁秋亭は苹錦園の東南側にある。亭内を溝がめぐり、山から水を人工の溝に注そぐようにしたのは、晋の修楔の「曲水流觞」(曲水、酒杯を流す)という典故を手本にしたものである。

流杯亭と呼ばれるには由来がある。親しい友を招待してここで酒を飲み、心ゆくまで酒を楽しむ時には、詩を詠じて競争した。酒杯が流れてきて自分の前で止まれば、その人は詩をつくらなければならない。できない人は罰の酒を飲まされる。当時の和绅も風流な人物だったと想像される。

「亭」の字のように湾曲しているので、酒杯は水に放たれると、水の行く道に沿って流れていくことから、「流杯亭」と呼ばれた。

中路で最後の建築物。もともと「雲林書屋」呼ばれていた。「寒玉堂」とも言われる。形状が羽を広げて飛ぶこうもりのように見えることから「蝙庁」とも言われる。これも福を祈る気持ちに由来する。満州族にとって、こうもりは吉祥と幸福、富裕の象徴。園内の長廊の至るところに大小さまざまなこうもりが溢れている。合わせて9999羽、蝙庁を加えれば、まさに「万福」の地である。建築物はこうもりの形で平面になっているため、「この庁は朝から夕方まで日が照る」と言われ、「北京の古代建築で唯一」とされている。

恭亲王奕訢は常にここで総理の各国事務衙門(役所)の大臣と軍国の大事を画策した。恭亲王の孫、著名な書法家である溥儒(溥心畬)もかつて蝙庁に住み、ここで絵を描いていた。梁や庇、柱や縁台は遠くから見ると竹でできているかのようだ。近くから見れば、色とりどりの絵の上に斑竹があるのが分かる。すべて工匠が一筆、一筆描いたものだ。筆さばきは実に素晴らしく、本物と間違えるほどだ。この建築物の形と斑竹は古代建築物で唯一と言われている。王府の主人と設計者がいずれも創意に富んだ大家だったことが見て取れる。

中国網日本語版(チャイナネット)

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