智化寺から皇城根大街へ!歴史を辿るサイクリングロード

2021-04-27

悠久なる歴史を持つ北京はたくさんの名称旧跡があります。強大な皇帝の権力が、中国の伝統的な環境理念である風水と結びつき、この都市をつくりあげました。胡同に育まれた北京の都市文化は、めざましい経済発展と市街の改造により、変貌の只中にあります。北京の下町を巡ろうと、歴史の物語を語っているスポットが多く見えますよ。

サイクリングロード:智化寺→東四胡同博物館→隆福寺→皇城根大街

智化寺

 お寺に近づくにつれ、都会の現代的な喧騒から離れ、古き良き胡同の街並みが徐々に広がります。そんな胡同の中には智化寺があります。

この寺の名前を知る人はおそらく多くはないでしょう。あまり知られた寺ではありませんが、収蔵品も少なくはありません。しかしこの寺が貴重とされることはほかにあります。ここは別名「中国音楽の生きた化石」と言われ、明代の仏教音楽「京音楽」(経音楽とも称される)をそのまま今に伝えているということで有名なお寺です。

智化寺は明の時代に立てられ、当時は十三歳以下の子供を弟子入れし、「楽僧」として七年間音楽を学ばなければなりません。寒い冬も熱い夏も、毎日は必ず四、五時間を練習します。「京音楽」は他の音楽の影響も受けず、また外部にも漏れず、そのまま今に伝わっています。その伝統は今にも渡り、美しい音色がお寺の中で響きます。

寺内での定期的な演奏会はなくても、よく寺内で練習しているので、運が良ければ聞けるかもしれませんよ!中に入らなくても、自転車を止めてお寺の外でその美しい音色を楽しむのもなかなかいいでしょう。

住所:北京市東城区朝陽門内南小街禄米倉街5号

東四胡同博物館

胡同に行くときはそこの民居の中の様子を見たい人は少ないでしょう。しかし、ほとんどの家には人が住んでいます。「これは私邸ですので、地元住民の邪魔をしないでください」という提示もよく見られます。誰も見知らぬ人が庭に入ることを望んでいませんよね。  

幸いなことに、東四胡同博物館に行けます。東四胡同博物館は昔の様子がそのまま残された典型的な四合院です。庭に入ると、灰色の壁が見られます。前庭と中庭の間には、壁と精巧なドアがあります。一般的に、前庭はゲストと出会う場所であり、中庭は家族が住む場所です。

中庭の部屋は今も昔の雰囲気を保っています。朱色の絵の具が生き生きとした雰囲気を醸し出しています。中庭にある軒先の彫刻、玄関の石埠頭などは北京の四合院の特徴を示しています。館内には昔の北京の生活と深く関係しているコレクションもたくさんあります。

当時の写真だけでなく、当時の胡同のイメージやさまざまな日用品も残されています。写真のほかに、博物館はビデオ、オーディオなどの方法も利用して触れやすい古い北京の胡同を展示しています。ここでは古風な建物だけでなく、生き生きしている胡同の生活も覗かれます。

住所:北京市東城区東四四条77号

隆福寺

隆福寺の北側は張自忠路南歴史文化保護区に隣接し、南側は文化資源に恵まれた朝阜大街に隣接しています。その総建築面積は約18万平方メートルです。「南には夫子廟、北には隆福寺」といったように、600年の歴史を誇る北京隆福寺は、北京の歴史の一部として、独特な文化景観となっています。

隆福寺は明景泰三年(1452年)に建てられ、かつて明清の両時代にわたって皇室の香火院として利用され、規制の等級はきわめて高いです。清雍正9年(1731)、雍正帝はお寺の拡張を命じました。隆福寺はラマ廟に改造され、雍和宮の下院になりました。次第に「文廟会」という盛大な縁日がここで開催され、当時の北京の「五大縁日」の一つとなりました。

20世紀の初め、隆福寺の古本業界が継続的に発展し、北京で有名な「文化街」になり、後には市民広場とリゾート地に変容しました。20世紀の半ばになると、隆福寺の縁日は中止となり、大規模な屋台市場の建設が始まりました。当時の北京最大の屋台市場として、百貨店や軽食の営業も盛んになってきました。その後、隆福寺は3回も再建され、当時北京で有名な「四つのデパート」の一つになりました。

北京の古城の核心エリアに位置する隆福寺は紫禁城に近く、東四と王府井にも隣接していて、優れた地理的位置を持っています。周辺は本屋、劇場、美術館、古跡などの文化資源も非常に豊富です。中華文化と世界文化、伝統文化と現代文明が集まっている隆福寺はすでに世界文明を集めた首都文化の「名刺」となっています。

住所:北京市東城区隆福寺街

皇城根大街

北京の皇城とは紫禁城ではないことは知っていますか?昔の北京城は、外から内まで、外城、内城、皇城、紫禁城の4つのエリアに分かれていて、それぞれ壁で隔てられています。四つのエリアは範囲の違いだけでなく、住民の地位の違いもあります。

紫禁城を守る皇城は約6.87平方キロメートルの面積をカバーしています。皇城の主な機能は、皇室に活動の場を提供することであるため、西苑(現在の中南海)、社稷壇(しゃしょくだん)、皇室の祖先の霊を祭る太廟があります。皇城に住んでいる人は主に清朝の皇子と大臣です。清朝の皇子は14歳になると、紫禁城から出て皇城に住む必要があります。

「皇城根」とは皇城の城壁跡のことです。城壁といっても、普通のような小さい規模のものではないです。調べてみると、かつて明と清の時代には、高さ11~13メートル、基底部の幅が20メートル、上部の幅が16メートルという煉瓦造りの巨大な壁が、一辺が5~8キロメートルの矩形をなして北京の中心部を取り囲んでいたことがわかりました。この矩形のエリアは北京の「皇城」です。

前述のように、「皇城根大街(通り)」も一つの道路ではなく、矩形をなす四つの辺の通りの通称です。一般的には、皇城の東側の城壁跡は東皇城根大街、南側は長安街、西側は西皇城根大街、霊鏡胡同、府右街、北側は平安大街となっています。

隆福寺に一番近くのは東側の東皇城根大街で、現在はすでに皇城根遺跡公園になっています。皇城根遺跡公園は細長く南北に延びる公園で、その北側は平安大街と繋がっており、南側は長安街と連接しています。全長は2.8キロあり、幅は30メートル前後です。公園内のところどころにある建物が北京の古代城壁を偲ばせてくれます。

この皇城根遺跡公園は明と清の時代に第二重の城壁として紫禁城を守った場所です。公園の南端には沈んだ広場があり、中には「金石図」があります。岩石の周りには明・清時代の帝都の地図が描かれており、古都の様子がはっきりと再現されています。

皇城根遺跡公園から南へ行くと、南側の「皇城根」に到着します。つまり、長安街のこと。長安街は天安門城楼を中点として、東と西の二段階に分けられています。天安門と故宮は人々によく知られている長安街沿いの有名観光地です。たとえこの二か所を観光せず、長安街を散歩し、体に降り注ぐ太陽の光を感じるだけでも素敵ですよ。  

そして、西長安街の終わりから右へ曲がると、西側の「皇城根」となります。この辺はまっすぐの通りではないです。そのため、大体四角形を呈している北京の皇城は南西角がないです。この辺は府右街、霊鏡胡同、西皇城根大街の三つの部分からなっていて、最も複雑な「皇城根」だとされています。そのうち、西黄城根南街と西黄城根北街に分かれている西皇城根大街が一番長い部分です。ここの「黄城」は間違った漢字ではないですよ。

最後は北側の「皇城根」、平安大街です。この街の両側には古建築を模倣したものが多くあります。街の中心部、すなわち北京の中軸線が通過した場所では景山公園の万春亭を眺めることができますよ。もし時間があれば、それらの「皇城」を囲む通りを一周するのも極めていいサイクリングロードでしょう。

文・北京旅行網

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