革命歌が誕生した名所巡り:房山良郷連合県農村第一連合党支部‐没有共産党就没有新中国記念館

2021-06-23

今年の中国共産党成立100周年という歴史的な節目に当たり、北京市文化と旅行局は市内の革命聖地といった「赤い」観光資源を活用し、人々に革命の歴史をより深く理解するために、共産党革命ゆかりの「赤い」観光ルートを10本打ち出しました。今回ご紹介するのは房山良郷連合県農村第一連合党支部と「没有共産党就没有新中国(共産党がなければ新中国がない)」記念館です。

房山良郷連合県の農村第一連合党支部で革命の旧跡を訪れ、「没有共産党就没有新中国(共産党がなければ新中国がない)」記念館であの波乱万丈な歴史を振り返り、一緒に「赤い旅」を始めましょう。

房山良郷連合県農村第一連合党支部

1938年5月、北京市房山区上石堡村には、于進琛という進歩的な思想を持っている青年がいました。彼はよく房山良郷連合県の県政府所在地に行き、そこで連合県組織部の趙然部長と知り合いました。趙然部長の紹介を通じて、于進琛は中国共産党に入りました。村に帰った後も、彼は積極的に抗日戦争のために貢献するよう村人たちを動員しました。抗日根拠地を設置するために、趙然もよく上石堡村を訪れていました。

于進琛と趙然に影響され、王興雲、李富貴、謝景森、鄭修賢、王水、謝景河の6人が相次いで中国共産党に入りました。1938年6月、連合県政府に許可を受け、上石堡村で党支部が設置され、于進琛が党支部書記を務めることになりました。これで房山良郷連合県初めての農村党支部が誕生しました。

上石堡党支部は抗日戦争の重要な根拠地であり、平西地区の戦いでは重要な役割を果たしました。

住所:北京市房山区上石堡村

「没有共産党就没有新中国(共産党がなければ新中国がない)」記念館

房山区霞雲嶺郷堂上村、ここは『共産党がなければ新中国がない』という歌が誕生した場所です。村には「共産党がなければ、、新しい中国はない」記念館があり、その展示面積は約1600平方メートルです。館内では、写真や文章、歌、マルチメディアなど多種多様な形で観客に臨場感を与えます。

『共産党がなければ新中国がない』という歌の作詞、作曲者は曹火星です。その娘である曹紅雯は堂上村に招待されたことがあります。そのとき、霞雲嶺中心小学校の子供たちと一緒に「常に党の指導を擁護する」をテーマにしたイベントに参加し、革命歌を歌いました。「父は一生1600曲以上の歌を創作したから、『人民の音楽家』と呼ばれている」と曹紅雯が述べました。70年以上前に創作した『共産党がなければ新中国がない』という歌が人々の真の気持ちを表したからこそ、現代まで歌われてきました。「『人民のために創作する』とよく父に言われていた」と曹紅雯が言いました。

村のある古い家を見学したら、この曲の誕生前後のことを理解することができるでしょう。記念館のすぐ近くにいるこの家は、西向きで、面積は約30平方メートルです。今私たちが見えるのは修繕した後のものです。家の中には家具も少なく、地面に石製のもので、オンドルの上ににござが敷いてあります。1943年10月、当時19歳の中国共産党党員曹火星はこの小さな部屋で、一晩だけで『共産党がなければ新中国がない』という歌の創作を完成しました。

「すぐ近くに住んでいるから、いつでも来られます。」すでに村で説明係のボランティアを10年間やってきた李増軍は、自分が1994年に曹火星と接触したことがあるため、曹火星の創作の過程をよく知っていると言い、この「赤い歴史」をより多くの人に知ってもらいたいという意を表明しました。「この歴史を語るには、原稿を用意することもなく、千部頭に入っているから」と李増軍が述べました。曹火星が曲を作るとき、この部屋の窓わくに張っていたのはただの紙で、そして床もとても汚れており、本当につらい生活だったということです。

関係者の紹介によると、曹火星は堂上村に1か月ぐらい住んでいました。曹氏がここを引っ越したあと、この古い部屋は学校、生産隊事務室、食糧庫として使われたことがあります。その後、堂上村に記念館が建てられ、この部屋も空き部屋になりました。

住所:北京霞雲嶺国家森林公園の西、「京都屋脊」白草畔山下堂上村【劉倩 訳】

北京旅游网翻译

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