歴史上の北京を訪ねて│元大都

2021-11-30

元大都は、金中都旧跡の東北部にありました。その城跡は今の薊門橋の南西部、中国政法大学の東門と北京郵電大学の西門の間にあり、「元大都城壁遺迹」という標識が設置されています。

元代のクビライは、開平城(現在の内モンゴルシリンゴル盟)でカーンに即位すると、すぐ南下して中都を攻略しました。しかし、このときの中都は、巨大な損傷を被っただけではなく、肝心の水源も確保されていなかったです。そこで、クビライは蓮池水系周辺に建てられた歴代の旧跡を捨て、金中都の北東方に瓊華島を中心とした新都市を建設し、本格的に『周礼・考工記』によって都市配置を計画しました。それは当時世界最大の都市、元大都でした。元大都の建設は、18年の歳月と25000人を超える労働力がかけられ、北京の都市発展の歴史において、承前啓後の重要な意義を持っています。

蒙古人は元大都を「カアン八里」、すなわち「カアンの都」と呼んでいました。その都市配置は中国の伝統的な礼制と儒家の思想を融合し、帝権至上の思想を体現しました。

大都は長方形で、道が整然と分かれており、民間では「八臂ナタク城」とも呼ばれていました。その豪華さは遼南京や金中都を遥かに上回ります。

元大都の城内の配置は、整然としています。城郭は、外城、皇城、宮城の三重に分かれています。大都には五十の坊(古代中国の街並み)があり、坊の名は古典から取っています。以前の金中都の閉ざされていた里坊が、開放的な街並みに変わりました。

七百余年の時はあっという間に過ぎ、元は滅びましたが、一部の遺跡や地名は今までも使い続けています。安貞橋から安慧橋の間にある安定路は、元から伝わってきた古い街道です。また北四環付近にある元大都の城址や城内の排水施設などから、当時の元大都の繁栄ぶりを伺えます。

元代末期、蜂起軍を防ぐため、元順帝はあわてて十一の城門の甕城(古代城門の外に建てられた防御用の施設)を筑くようと命じました。1969年に、和義門(明・清には西直門と呼ぶ)の甕城が発見されたが、その上にある消火施設は建筑史上で初めての発見となりました。

1960、70年代に、考古学者は元大都の城垣、街道、河湖水系を踏査し、異なるタイプの住居遺跡と建築遺構を発掘し、元大都の歴史的な姿を復元するために詳細な資料を加えました。今日、北京市内の多くの街道や胡同には、元の大都の町並みの名残が残っています。(叶威 訳)

北京旅游网翻译

モデルコース
人気おすすめ