譚派の創始者、老生に新しいくふうを加えた譚鑫培

2021-12-02

譚鑫培(たんきんばい、1847年4月23日-1917年5月10日)は、老生(立役)を専門とする中国清末の京劇俳優。本名は金福、湖北省江夏の出身です。四大徽班(安徽省の三慶、四喜、春台、和春の四大劇団)の一つである三慶班の座頭をつとめた程長庚(ていちょうこう)の一座の三慶班に属していたが、のちに自分の一座をもち、老生の名手となり、清朝の宮廷内でも演じました。間違いなく清末で最も重要な京劇の俳優の人であります。また、中国の最初に撮影された映画『定軍山』(1905)の唯一の俳優でもあります。

父がひばりのような甲高い発声で知られ、叫天子(きょうてんし)と賞賛された老旦(老婆役)の譚志道(たんしどう)であったため、譚鑫培は小叫天とよばれています。最初、譚鑫培は武生(立回りを主とした立役)と武丑(立回りの三枚目)であったが、のち老生を演じることになりました。

本来、京劇の老生のふしは丹田の声を駆使した豪快さを特徴としていたが、譚鑫培は悠揚曲折、感傷に富むふしを工夫しました。軽妙で甘くやや哀切を帯びた歌いぶりは、おぼろ月のようと評され、程長庚以来の老生に新しいくふうを加えました。そのため、1900年ごろには京劇界の代表的俳優となり、譚派を形成してきました。その以後、老生の演技は多くが譚派に属します。代表的な演目として、『空城計』『李陵碑』『戦太平』『桑園寄子』などが挙げられます。

伝説の京劇役者・梅蘭芳の息子で自身も京劇の世界に生きる梅葆玖が次のように述べています。「譚鑫培氏は、私の曽祖父(梅巧玲)と同じ時期の人物で、二人は仲がいい友達でした。そのため、譚鑫培氏は65歳の時に当時わずか19歳の父と『桑園寄子』を演じました。人生の最後の半年間も父と『汾河湾』『四郎探母』などを演じました。これは父の京劇の生涯に非常に重要な基盤を築いたので、ある意味で譚鑫培氏がなければ父の梅蘭芳はありませんでした。譚と梅の2つの家族の繋がりは中国の京劇の発展の歴史の縮図とも言えます。」

特筆すべきなのは譚鑫培の家族の40人以上が7世代にわたって京劇の俳優として働いてきました。譚氏の家族の歴史も「凝集された中国の京劇の歴史」と言われています。そのうち、彼の息子の譚小培(たんしょうばい)、孫の譚富英(たんふえい)も老生で知られています。特に孫の譚富英は祖父のものを受け継いだ上に、自らの風格を創造し、同時期の馬連良、張君秋、裘盛戎、趙燕侠とともに当時の「五大看板役者」と賞賛されました。

7世代にわたっても譚派における芸術の神髄を保持しているだけでなく、各世代は独自の特性を組み合わせて革新を実現したことは、譚派が常に活力を維持している秘訣でしょう!

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