北京の歴史は、初めて太古の人類が地球上を歩いた、有史以前の50万年前までさかのぼる。1921年に北京の近くで発掘された考古学的証拠が北京原人の存在を証明した。有史以前から北京は帝国王朝が現れては消えていったようである。そして混乱した戦、反乱、権力闘争を見続けてきた。
北京に人類が定住したという一番最初の記録は、周王朝時代の紀元前1000年にさかのぼる。モンゴル、韓国、他の民族の交易所として機能した、済(チ:Ji)と言う名の小さな街が現れた。紀元前7世紀の燕王朝には、北京はすぐに首都として発展した。モンゴルと満州の間の支配を巡る争いは、都合の良い地理的な位置関係が原因で頻繁に起こった。この頃、済と言う名前は変更され、北京は燕京として知られていた。最も多くの王朝が、この時代に君臨した。
西暦1215年、首都は、広大な帝国建設の野望をもったモンゴルの将軍、チンギスハンと彼の部下たちによって攻撃を受けた。7年間に渡る攻撃の後、モンゴル人の手によって破壊され、カーンバリック(カンの街)あるいは大都(偉大な首都のための中国)が出現した。1267年に建てられ、チンギスハンの孫、フビライハンの支配下となった。1279年までにフビライは中国全土を征服した。そして歴史上で最も大きい帝国の支配者になった。この支配は元王朝(1279~1368)として知られている。
1368年には、別の王朝が成立した。明王朝(1368~1644)である。朱元璋(シュゲンショウ、光武帝)が反乱を指導し、モンゴル帝国を滅ぼし北京を引き継いだ。朱の支配下で、この街の名前は(再び)ペイピン(北平)に変更され首都の座から下ろされた。代わって王朝の首都は、南に位置する南京であった。しかし1400年代初めに、朱の4番目の息子、永楽帝によってペイピン(北平)は王朝の首都に戻され、北京へと名前が変えられた。文字どおり北にある京(首都)である。
今日の北京の基盤を築いたのは永楽帝であった。彼は、柴禁城(現在の故宮)を街の核、そして中心とし、基本となる格子状の道を作った。他にも、天壇やベルタワーといった有名な建築物が彼の支配中に築かれた。
満州人が1644年に明王朝に終止符を打った。そして清王朝(1644~1911)が成立した。清の下で北京はより拡大し、円明園と頤和園の建設で改善された。しかし、この平和な時は続かなかった。18世紀の後期までに、北京はフランスやイギリスの侵略、無政府状態、地元の反乱があった。多くの中国人は清王朝、特に西太后(1834~1908)の無能力と腐敗に激怒した。そして1900年に義和団の乱に至った。多くの外国人が反乱で死んだ。その報復として外国の同盟軍は北京を侵略した。
1911年に清王朝はついに崩壊した。国民党は権限を高め、中華民国は首席として孫中山が設立したが、物事は将軍による、変化のないままであった。また、支配権を巡って、また地元の中国人の間の極度腐敗と貧困が原因で外国との戦いは続いた。そういった状況は反乱や改新で熟していた。そしてマルクス主義が人気をつかみ、共産党の編成に至った。1921年に共産党は毛沢東をメンバーの1人として上海で作られた。国民党、蒋介石、共産党の間で、中国を再統一するために将軍と外国人から支配権をつかみ取るための同盟が組まれた。だが、この同盟も長くは続かなかった。第二次世界大戦後に共産党と国民党の間で、権力闘争が勃発し内戦に至った。蒋介石と国民党は破れ、台湾へ逃亡した。そして1949年10月1日に中華人民共和国(PRC)が北京の天安門広場で正式に宣言された。
毛沢東の指導の下で、中国は混乱の時に直面した。毛沢東は大躍進と文化革命(1966~1976)に乗りだした。それらは北京と国家に悲惨な結果をもたらした。完全資本主義、或いは搾取的な影響を根絶する試みにおいて、狂信的な紅衛兵は、寺院、記念碑、芸術作品等を破壊した。そして知識人や作家たちはしいたげられた。政党内での内部抗争と権力闘争が大混乱に拍車をかけた。この混乱は、毛沢東が死ぬまで続いた。
1979年に、小平が国の指導者となった。開かれた市場、西洋との固い交易、そして経済成長への改革を強調した近代化プログラムに着手した。経済の改善にもかかわらず、小平は共産主義の政治的観念を継続するつもりだった。1989年、天安門広場で始まった学生民主化運動は劇的に激しさを増した。その後、北京は重要な経済の変化、民間企業の発展、個人所得の上昇、建築ブームが始まった。けれども、政治的な変化が何をもたらすかという問題が、まだ残っている。
Copyright (C) 2003 中国北京市観光局 情報の無断転用を禁じます
Webmaster_jp@bjta.gov.cn