中華民族名医人物伝:扁鵲

2022-03-16

仰韶文化の時期に、東夷部族は鳥をトーテムの動物としていました。三皇時代の少昊部落は「鳥で官を記す」、つまり官の名称を鳥に記し、○○官を○○鳥と称しました。「鵲」(カササ) は霊鳥であり、吉祥のシンボルです。「扁」 は 「砭 」の同音異義語であり、扁鵲が「砭石」(中国最古の医療器具である)の管理を担当する官員でした。「扁鵲」は古代のトーテムの産物であったため、その後次第に先秦時代の多くの良医の代名詞とされるようになりました。人々は名医に起こった出来事を扁鵲が経験したこととみられました。

司馬遷が執筆した時点で、扁鵲は中国史上初めて正式な伝記を持った医家でした。司馬遷が書いた『史記』によると、扁鵲の姓は秦で、名は越人で、若いころ旅館の主管をしていたといいます。その時、宿泊のために長桑君というお客が来ました。知りあってから二人は10年以上の付き合いとなりました。ある日、長桑君は隠し持っていた医学秘伝書を扁鵲に伝え、姿を消しました。また、長桑君は扁鵲に五臓の病気を透視できる不思議な薬を与えました。扁鵲はこの時から長い間に民間で医者をやっていました。彼は諸侯国を往来し、斉、趙、宋、衛、秦などに足跡が残っていました。扁鵲は医術も優れ、品性も高尚で、人々から愛されました。しかし残念なことに、彼が晩年秦に入ったとき、李醯に残酷に殺害されてしまいました。

以上の物語から、扁鵲の優れた医術は独学で得たものではなく、神様が与えた力を借りたものであることが分かります。それだけではなく、『史記』に記された年代記によると、扁鵲の活動期間は紀元前746年から紀元前509年まで245年にも及び、一般人の寿命をはるかに超えたといいます。この点で、扁鵲は神医なのか巫医(巫術で病を治す人)なのか、疑問を抱かずにはいられません。司馬遷は、なぜこの神格化された人物に伝記を書きましたのですか。

■「四診」の元祖

扁鵲は民間に伝わる経験と彼自身の長年の医療実践に基づいて、疾病を診断する四つの基本方法をまとめました。つまり望診(患者の表情で病状の推移を観察すること)、聞診(患者の声を聞いたりにおいを嗅いだりして診断すること)、問診(患者や家族に話を聞くことで病状を知ること)、切診(脈をとって病状を判別すること)です。司馬遷は『史記』に扁鵲の診療医案を三つ記しており、扁鵲の四診、特に望診と脈診(脈をとって病状を判別すること)の運用の水準を全面的に示しています。

■「巫」と「医」の分離

人類社会の初期には、医学と巫術が融合し、医学が神秘的な色彩を帯びていました。医学の科学化が進むにつれて、「医」と「巫」は徐々に分離しました。扁鵲は医学と巫術が分離する重要な段階に立って、医学を巫術の分水嶺から脱出させました。

まず扁鵲は多くの学問に精通した民間医師で、医学的な診断法と治療技術で患者を治療していました。第二に、扁鵲は「六不治」という医学規範を提起しました。これは医学史上初めて確立された医療行為の規範であるだけでなく、扁鵲の学問思想を体現しています。そのなかで、「巫を信じて医を信ぜざる者は治せず」ははっきりと巫術と医学の合流に反対する旗を掲げました。

扁鵲の故事は広く伝えられており、扁鵲を記念する墓地も多くの場所に設けられています。古人は『難経』は秦越人が書いたものだと名指しました。それは扁鵲が人々の心の中で高い地位を占めていることを示しています。また、彼の名を借りて本の重要性を示し、彼に対する尊敬と懐かしさも表しています。(劉娜 訳)

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