中華民族名医人物伝:張仲景

2022-03-16

張仲景は、中国で医術の腕が高く評価されていたが、『後漢書』『三国誌』及びその後の正史に記載が全く残されず、生前は有名ではなかったかと推察されます。張仲景は一体どのような人物で、またどのようにして医聖となりましたか。

■長沙太守と医者を兼任

『名医録』に掲載された記述から、かつて張仲景は長沙太守(県知事のような政治家)の任に就いたことが初めて分かります。『名医録』は、中国における最も古い医学者についての伝記です。同書によると、張仲景は専務医者ではなく、長沙の太守であり、医学はただの副業と趣味です。同郷であった張伯祖から医術を学んでいた事もあり、間もなく医術の道にも通じました。しかし、近年、歴史学者によって、『後漢書』に掲載された歴代の長沙太守には張仲景の名前が見つからないことが証明され、一体長沙の太守を務めたことがあるかどうかも疑問視されるようになりました。文献は確定できていないけど、張仲景は長沙の太守という説がよく知られ、後世の医学書でも張仲景を「張長沙」と表記することが多いです。

■方々の長所を受け入れ、『傷寒』を形成

張仲景は専務医者ではないと、『傷寒雑病論』を書く理由はなんですか。そして、「傷寒」という病気はなんでしょうか。

張仲景が生きていた後漢末期は、中国が乱れていた時期に際しました。戦争が頻発し、イナゴの災いや洪水、干ばつなどの天災に見舞われ、人々が居所を失って他郷を流離い、疫病の大流行を引き起こしました。張仲景の一族もひどい目にあいました。もともと大所帯である張氏家族(約200人の大家族)は、10年間のうちに疫病によって三分の二の親族が亡くなってしまいました。その結果、張仲景は熱病の研鑽に没頭し、『傷寒雑病論』を書き上げました。

ちなみに、中国古代から伝わる医学書にある「傷寒」という言葉は、現代医学の「傷寒症」とは異なります。現代医学では、傷寒(また副傷寒、即ちパラチフス)は細菌による腸管の感染症としているが、『傷寒雑病論』に書いた「傷寒」は全ての外感熱病の総称だと考えられています。

■転々と伝わる古典籍

張仲景が著した16巻からなる『傷寒雑病論』は、「傷寒」と「雑病」という二つの部分を含みます。「傷寒」に関する部分では、各種類の熱病の症状と治療法を分析し、「雑病」に関する部分では、主に内科難病を論述します。書き上げた間もなく、戦乱のため、『傷寒雑病論』の多くが散逸してしまいました。魏晋時代、太医令であった王叔和が初めて散逸した資料を収集し、傷寒に関する部分と分けられ、全10巻の『傷寒論』を新たに編纂し直しました。王叔和のおかげであり、張仲景が傷寒に関する論述が残されてきました。

印刷技術がまだ発明されていないことでもあり、医者の考え方が比較的保守でもあり、『傷寒論』は宋の時代以前に普及することができなかったです。出版技術の発達にともない、宋の時代以降、『傷寒論』が広く流布し、後世の医者に必修の古典となりました。

■「医聖」と称えられる由来

張仲景が「医聖」と称えられるのはいつでしょうか。文献によると、金の時代の劉完素は最初に『素問玄機原病式』で明確に張仲景を「亜聖」と呼ばれ、同時代の医家である成無己も『傷寒明理薬方論』で「大聖」と称えられました。明の時代になると、李濂は、現存している医学史に関する最も古い著書である『医史』を著しました。この本には、張仲景の伝記が記載されていたが、「医聖」ではなく、「医中亜聖」と書かれました。清の順治十三年(1656年)に「医聖祠」を改修してから、「医聖」という言い方が初めて出てきました。これから、後世の人は張仲景に敬意を表すために、ほとんど「医聖」と呼ばれています。(資料提供/中国中医薬報 訳/陳丹丹)

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