蚕神を祭った場所「先蚕壇」、先蚕儀礼とは?

2022-03-11

北京の中軸線に沿った古い建物の中に、啓蟄の前後に万物が復活するたびに賑わった古跡があります。その名も虫と直接に関わっています。それは今日の北海公園の東北角にある清代の「先蚕壇」です。

北海公園の北門から入り、古代の朱色の壁に沿って歩き、左に曲がると、緑色の釉薬瓦で覆われたな荘厳門があり、満州語と中国語で「先蚕壇」と刻まれた横額が掲げられています。これは清朝の后妃たちが蚕の神を祀った場所で、乾隆7年(1742年)に建てられた北京九壇の一つです。地図上では、永定門の内側にある「先農壇」と一直線に並んでいます。

「先蚕壇」は現在、一般に公開されていないため、よく知られていないです。祭壇や廟の文化を研究している董紹鵬氏は、かつて「先蚕壇」を見学したことがあり、『北京先蚕壇』を著しました。彼の職場である北京古代建筑博物館はちょうど南城の先農壇に位置しています。先農壇の研究をしていた時に「ついでに」先蚕壇を研究したと笑いながら彼は語りました。農桑は古代の重要な出来事であるため、史書では、二つの史料の記載もほとんどつながっています。

蚕壇を設けたのは、最初の養蚕の神を祭るためですが、この祭式の確立は、天子が自ら畑を耕し、王后が自ら養蚕作業を行い、神を敬い、農業と桑を重視する模範を世に示した周朝の典章制度にさかのぼります。董氏によると、北京に先蚕壇ができたのは元代からだが、元代の皇后が蚕を育てたという歴史的な記録はないといいます。明朝が北京に遷都した后、嘉靖皇帝は国家の礼儀を定め、周制に倣って、都の北郊安定門の外に養蚕場を建て、今の中南海の西北隅に桑林織堂を建て、全体の儀式は二カ所に分けて完成しました。そのあと、儀式の便宜をはかって、嘉靖皇帝は北郊の建物を取り壊し、西苑に養蚕場を再建して、もとは分かれていた二つの机能を統合し、これによりすべての儀式は皇家禁苑内で行われました。

清朝は乾隆帝の時から、皇后が親蚕礼を執り行う制度を確立しました。それは明朝の制度を受け継ぎ、宮殿の内庭で行われました。新しい場所は西苑の東北隅で、今日の北海公園にある先蚕壇の位置です。乾隆九年(1744)旧暦三月三日、新しく建てられた「先蚕壇」で第一回親蚕大典を迎え、孝賢純皇后は儀礼によって親蚕礼を円満に完成させました。乾隆帝は郎世寧などの宮廷画家に命じて「孝賢純皇后親蚕図」(台北故宮博物院蔵)を描き、自ら詩を書きました。

蚕の神を祭るのは乾隆帝の時から国家の儀礼制度として定着し、毎年旧暦三月の吉巳の日に行われます。手続き的な象徴儀礼として、皇后は一般に具体的な労働過程には関与しなかったが、唯一の例外は龍樹皇后でした。彼女は光緒皇帝の寵愛を受けなかったため、一時は気が滅入ったが、期限どおりに礼をするだけでなく、長い間先蚕壇に住み、養蚕の全過程に直接関与しました。彼女は古代の皇后が自ら養蚕した異例のケースです。

現在、この朱色な「先蚕門」や郎世寧の絵、喜仁龍らの撮影から、当時の光景を想像することもできるでしょう。(劉娜 訳)

北京旅游网翻译

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