長い歴史を持つ王府井とは、北京中心部東城区にある繁華街であり、日本人には「北京の銀座」と呼ばれることもあります。巨大デパートや飲食店が立ち並び一帯は歩行者天国になっています。 ただ、この名前を聞くと少し違和感を覚えることが多いですが、「王府井ってどんな井戸なの?王府って皇族の屋敷に関連するもの?何でそんなに人気なの?」という疑問が生じます。では、今回は「王府井」という名前の歴史と由来についてご紹介します。

▲王府街
実は王府井大街はもともと「十王府街」と呼ばれ、「王府街」とも呼ばれていました。明朝では、この通りに10の王府と3つの公主府がありました。清王朝になっても明と同じように、王府が建てられていました。清末民初の政治家として知られる朱啓鈐氏によれば、ここでは清の多鐸(豫親王)の王府が最大で、いまの協和病院はただその一部であります。
●多鐸(ドド)
清の太祖第15子。阿済格、多爾袞と共に母は太祖の寵妃烏拉納喇(ウラナラ)氏。清の初期の世襲が許される鉄帽子王の地位を獲得した8家の1家です。
多鐸は卓越した軍事的功績で特に尊重されていたため、清王朝では、この通りは「王府街」と呼ばれていました。

▲甘い水の井戸
1905年(清の光緒三十一年)、北京は地名の改正を実施しました。「王府街」は通りの南端に甘い水の井戸があったことから、総称して「王府井」と改名されました。
1885年(光緒十一年)の『京師坊巷志稿』(当時の「地理志」)によると、当時の北京城の内城と外城には1258本の井戸があったが、そのほとんどが苦い水の井戸であったため、王府街にあるこの甘い水の井戸の評判は特に高かったです。清王朝の地図によると、この井戸は通りにある唯一の井戸です。王府と井戸を組み合わせた名前はこの通りにあるランドマーク的な建物を示すことができます。
王府井が繁栄になったのは、かつての東安市場のおかげです。東安市場はもともと明朝の王府でしたが、清王朝の初期に呉三桂に渡され、「平西王府」と改名されました。「三藩の乱」の後、この王府は神機営(清王朝の間に紫禁城の守護を担当する部隊)の訓練場に変更されました。

▲神機営の訓練場
1903年(光緒二十九年)、愛新覚羅善耆(鉄帽子王の1人)、葉赫那拉那桐の請願により、西太后の承認を得て、長い間見捨てられていた神機営の訓練場が各地からの商人に開放されました。訓練場所在の王府井もすぐに繁栄になってきました。
通りは数え切れないほどの物語の組み合わせであります。この「王府」と「井戸」の組み合わせはまさに北京の伝説を作りました。



