北京の歴史を学ぼう│明清時代の皇城を見守ってきた普度寺

2022-01-11

中国北京市の南池子の東側に位置する普度寺は伝説の紫禁城外八廟の一つです。壮大な紫禁城と比べて、普度寺は目立たないが、明清時代の皇城を見守ってきました。

普度寺は清初期の摂政王(幼少の皇帝が成長するまで国家運営をする代理の王)ドルゴンの叡(えい)親王府で、ドルゴンが清朝廷の権力の頂点に立つ時、ここでは官吏や貴族の馬車が集まり、非常に賑やかでした。王府の前身は、明の永楽時代の皇太孫宮です。現在の南池子の東西両側、東安門通りから南側の菖蒲河公園までの一帯、普度寺も含む広いエリアは全部明代の南内(東苑、南城)地域に属しました。明英宗の朱祁鎮は土木の変でモンゴルにいけどりにされたので、弟の朱祁钰が即位しました。朱祁鎮は釈放された後、ここに幽居していました。その後、朱祁鎮が奪門の変を起こし、再び皇位に返り咲くのもここから始まりました。

朱棣が在位した時、朱高熱を太子に冊立しただけでなく、自分の大好きな孫である朱高熱の長男朱瞻基を皇太子孫に冊立しました。皇太孫宮は現在の普度寺に位置しました。

乾清宮から南東に45度の斜線を引くと、ちょうど南三所(明の太子宮の後部寝殿の所)と普度寺を通るのは偶然ではないです。明代の宮城全体は紫禁城内の中軸区域、その東南側の太子宮区域、宮城東南部の南内皇太孫宮区域という三つのブロックに分けられています。また、斜めの配置は伝統的な礼制に合致し、王朝の後継者を育成する考えもあります。

普度寺の前身である重華宮と延安宮は、それぞれ北側と南側に位置し、皇太孫宮の中核的区域を形成しています。清の初め、普度寺は摂政王であるドルゴンが臨朝の場としました。今日の普度寺大殿は当時の摂政王大殿に比べて規格が低下し、乃至は一般の王府も下回ります。

ドルゴンが爵位を奪った後、王府は廃棄されました。康熙三十三年、王府の前部は絹布庫に変更され、後部はマハカラ廟に変更され、元と明朝の伝統を踏襲しました。乾隆四十一年(1776年)、乾隆帝が王府に普度の名を賜りました。その後、残った山門、大殿と方丈院は小学校として使われ、その間に多くの住宅が建てられました。2007年に北京市税務博物館にされ、2011年に三品美術館が導入されました。現在は庭園が開放され、大殿が閉鎖されています。普度寺はかつて豊かな文化財を持ち、民国の時に軍隊と機構に占拠され、所蔵も多く盗まれました。

以上は普度寺の経歴です。皇太孫宮から始まり、明英宗とドルゴンの物語を目撃し、康乾盛代のラマ廟に定型化され、今日の北京城の路地にそびえ立つ名所の一つになっています。(叶威 訳)

北京旅游网翻译

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