中国のおもちゃ、伝統的な沙燕風筝

2021-12-30

凧は中国に起源を持つ民間工芸品で、その始まりについて多くの伝説が伝えられています。最も早い時期の凧は紙ではなく木で作られていました。伝説では最初の凧は魯班(中国の大工職の祖)によって作られたと言われます。墨家の代表的な哲学者・墨翟が作ったという説もあります。『韓非子』に墨翟は「三年の月日をかけ、木で凧を作り空を飛んだ」と歴史書に書かれています。これが世界最古の凧だとすると、今から二千年以上も昔のこととなります。中国では凧が漢代から「紙鳶(しえん)」として用いられたことがあります。

伝説によると、墨家は軍事技術を熱心に研究したせいか、初期の凧の話では軍事利用に関するものが多いのです。たとえば、前漢の韓信は凧を使って測量をしたと言われます。また南北朝時代の梁の武帝の時には、凧を使って信号を送ったと言います。有名な四字熟語・四面楚歌の由来も凧と関係していると言われます。紀元前206年から紀元前202年にかけて、楚の項羽と漢の劉邦との間で中国史上、最も壮大でドラマチックな戦いが繰り広げられました。紀元前202年、劉邦軍は項羽を垓下に追い詰めました。夜、 劉邦軍の将軍・韓信は部下に牛の皮で作った凧を揚げさせました。凧は項羽陣営の方へ飛んでいき、凧の上に付けられた竹笛は風に吹かれて音を立てました。この時、劉邦軍の兵士たちは笛の音に合わせて楚の民謡を歌い、故郷の歌が聞こえた項羽軍の兵士は故郷の楚は敵軍に占領されたと嘆き、戦う気力も失せてしまい、項羽軍は惨敗しました。

唐代から凧は遊び道具になっていきます。唐から宋にかけ、伝統的節句として清明節が定着していくと、凧揚げは清明節に不可欠の行事になっていきます。明や清になると、子供たちが凧揚げをするのは春の風物詩になっていきました。

凧の生産地としては、北京、天津、山東濰坊、江蘇南通、四川成都などがあります。そのうち、北京の凧は、工芸の細やかさと古典的な色彩の豊かさで、広く知られています。北京の凧は「曹式」、「金式」、「哈式」に代表されており、曹式凧の創始者は、中国の古典文学『紅楼夢』の作者•曹雪芹であると言われています。曹雪芹は中国を代表する文豪であるばかりか、凧の観賞と制作に精通した大家でもあります。その著書の『南鷂北鳶考工志』には、四十三種類にのぼる凧の四工芸が詳述されています。それは北京の凧の形成に、重要な役割を果たしたと考えられています。

北京の凧は種類が多く、現存する『北平風筝譜』には二百種あまりの凧が紹介されています。北京の凧には、硬翅(羽が固定されたもの)、軟翅(羽が動くもの)、拍子(拍子木型)、串(連凧)、筒(筒型)、沙燕(ツバメ型)などの基本様式があります。中でも沙燕は北京の凧、ひいては中国の凧を代表するものです。

沙燕は扎燕とも呼ばれ、ツバメを模した形をしています。それはさらにデフォルメを経て定型化され、民族色と装飾性の豊かな凧になっていました。沙燕の形もさまざまで、肥燕や痩燕、雛燕、比翼燕(二羽が並んだもの)などがある。曹雪芹の著書には「肥は男、痩は女、雛燕は子ども、双燕は夫妻」という歌が記されていたというが、いずれにも凧を擬人化した民間職人たちの豊かな感性と、人生への賛美が注がれているのです。

凧を一つ作るには、その設計から材料選び、成形、骨組み、紙の貼りつけ、裁断、作画、組み立て、糸つなぎ、凧揚げによる最終チェックまで、十のプロセスが必要です。それは主につなぐ、貼る、描く、揚げるという「凧の四工芸」に集約されます。

沙燕凧の構造は簡単である。五本の竹ひごを骨格とし、そのうち上下二本の竹ひごを曲げて、「膀兜」と呼ばれる羽をつくります。こうすると、風が弱くても凧が揚がり、風が強いと凧を安定させることができます。他の種類の凧よりも、飛行能力に優れるのです。

沙燕から変遷した凧は多様で、全国各地に及んでいるが、装飾の基本は厳しく制限されています。まず目、くちばし、羽、つめなどの輪郭を墨で線描し、その後、色とデザインを書き入れます。職人は、沙燕の羽や腰、胸、尾などにコウモリ、桃、牡丹など縁起のいいデザインを描いて、凧を揚げる人の幸福や長寿、富貴を願うのです。

北京旅游网翻译

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