京劇の道化役「丑」の歴代の名家

2021-12-14

世界中の各民族の成熟した演劇の中で、悲劇と喜劇は正反対の美学的特質を持っているが、両者は自分ならではの思想力と鑑賞価値があります。中国も例外ではないです。中国の歴史上の各時期に無数の演劇の古典作品が出現し、その中で喜劇は一度も欠席したこともないです。戯曲においては、「丑」(チョウ)の役柄を演じる俳優たちこそが喜劇の最も主要な形で、最も重要な役割を果たしています。京劇の「丑」という役柄は品性の醜悪を指すのではなく、扮装が美しくないことを指します。丑の役柄には、陰険で狡猾なキャラクターもあれば、正直で善良なキャラクターもあります。また、丑には文丑と武丑という二つの種類もあります。

歴史的から見れば、京劇の中、丑に関する演目は非常に多く、大きな演目にはほとんど丑という役柄が設けられるのだけでなく、丑を主役とする折子戯も少なくはないです。京劇の丑の芸術は、文丑でも、武丑でも、いずれもかつては高いレベルに達しました。昔の「同光十三絶」(同治・光緒の時代に、最も有名な京劇芸術家の13人を指す)時代の丑の大家である刘赶三、楊鳴玉などの風采を追慕することが容易ではないが、その後の文丑の代表人物である蕭長華、武丑の代表人物である叶盛章の芸術への造詣も一時代においての公演芸術の最高レベルだと言っても過言ではありません。しかも、これらの貴重な無形文化遺産、20世紀半ばになっても比較的よく伝承されてきました。

▲清代末期の丑の名家:黄三雄、楊鳴玉、劉赶三

黄三雄(1813-1878)は、道光初期に高腔恩慶科班(科班とは旧時俳優志願の少年を集めて小さい時から芝居を学ばせた劇団組織のこと)に入り、まずは「老生」という役柄に専念したが、その後は丑に打ち込みました。彼は京劇の丑の独特な唱腔を確立し、当時の京劇界で楊鳴玉、刘赶三とともに最も名高い三人とされ、その芸風は「黄派」と称されます。代表作には『追考』、『盗韓』、『小過年』などがあります。

楊鳴玉(1815-1894)は、清の同治・光緒の時期の京劇界の著名な芸術家で、その技芸が堂に入りました。徽班が上京した後、楊鳴玉は徽調、昆腔の唱腔を変えて京劇の誕生に貢献し、京劇の形成に大きな貢献をした「同光十三絶」の1人になりました。彼は京劇の丑の演技芸術の面で多大な貢献をしたため、清末の画家沈蓉圃に『同光十三絶』という画譜に入ってその名も後世に知られています。

刘追三(1816-1894)は声が清くてさっぱりとしており、演技力が高いと同時に、高い文化教養もあります。そのおかげで、劇の筋によって自分で曲を作り、また自分なりの唱腔で演じ、従来の丑の「セリフの話し方を重んじ、歌うのを軽んずる」というしきたりを変えました。

▲道化役「丑」の流派の源と賞賛された蕭長華

蕭長華(1878-1967)は、有名な京劇の丑の大家であり、優れた戯曲の教育家でもあります。1904年から1940年にかけ、彼は喜連成(富連成)科班で36年間教師として勤め、新中国が成立した後、ずっと中華戯曲学校で芝居を教えていました。彼の人格は後人に敬われるところが多いです。60余年の教師生涯の中で、彼は前后にして千人以上の学生を教えたことがあり、数多くの戯曲の人材を養成しました。それらの学生は全国の各京劇の公演団体に及んでいます。彼は弟子を取ったことがないが、他の生、旦、浄、武生、小生、老旦、武旦などの役柄の著名な役者もみな彼の指導を受けたことがあります。

蕭長華は清末の丑の大家である黄三雄、楊鳴玉、刘赶三に続き、京劇界のもう一人の承前啓后の丑の大家で、丑戯万派の源の巨匠と誉められます。

▲道化役「丑」の初の「挑班」:叶盛章

叶盛章(1912-1966)は、京劇の有名な公演芸術家です。京劇史上の丑のキャラクターで「挑班(京劇で、自分の影響力で公演団を作って公演する名家)」を実現した人で、これまで「流派」の開祖とされてきた唯一の芸術家でもあります。叶盛章の作った武丑の人物は性格が鮮明で、武術の仕種もさっぱりとし、かつて当時の京劇の武丑の第一人者と誉められました。

京劇は戯曲の中で最も影響力の大きい劇種として、各行当(役柄)の伝承も非常に大切です。しかし、異なる行当の伝承状況は全く同じではありません。生旦に比べると、丑と浄のこの2つの役柄は無視されやすいので、それを切実に受け継ぐのは課題の一つです。いかに京劇の丑の芸術をより効果的に伝承していくのは決して簡単なことではありません。(叶威 訳)

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