京劇の男性役「生」の名家、史上の「四大須生」

2021-12-09

京劇のキャラクターの区分が細かく、以前は10の行当(役柄)に分かれていたが、その後は合併して「生」「旦」「浄」「丑」の四つの役柄になりました。「生」は男性の役を指します。「旦」は女性の役を指します。「浄」は気性が荒い男性、或いは粗暴な性格を持つ男性の役を指します。「丑」は道化役で、道化、小花臉とも言われます。各種類の役柄は劇中の人物の身分、気質と性格の異なりによって、固定の臉譜、扮装と服装が異なり、舞台の働作もそれぞれの規範があります。京劇が形成した初期には、「老生」(生の中の善良な中高年の男性)が最も重視され、前後にして数人の老生名家が輩出し、「四大須生(四人の男性役「生」の名家)」と呼ばれています。

「四大須生」とは4人の著名な京劇の老生を演じる芸術家を指します。京劇史上、「前の四大須生」と「後の四大須生」という説があります。また、「前の四大須生」と「後の四大須生」には、馬連良氏も入っているので、四大須生の名を連ねた有名な京劇俳優は実際に七人しかいないです。それぞれは余叔岩、言菊朋、高慶奎、馬連良、譚富英、楊宝森、奚嘯伯です。

1920、30年代、京劇の老生俳優余叔岩、言菊朋、高慶奎、馬連良はそれぞれ独特な風格を持つ「四大須生」と呼ばれる芸術流派を創立しました。1930年代末、高慶奎は喉の病気で舞台から姿を消し、譚富英が高慶奎を取り代わりました。余叔岩と言菊朋は1940年代に亡くなり、楊宝森、奚嘯伯の名声は日増しに高まり、影響も大きくなりました。それで、「四大須生」という言い方は変わり、余、言、高、馬の四大須生と区別するため、後者を「後の四大須生」と讃えられました。これで京劇史上の「前の四大須生」と「後の四大須生」という区分ができました。

▲前の四大須生

→余叔岩

余叔岩(1890-1943年)は「老生」を演じる余三勝の孫です。彼は譚派を継承し、また革新を行い、剛柔相済の唱腔を特徴とする「余派」を確立しました。

余叔岩が演じた役は自分なりの特色があり、発声方法、演唱技巧などの面で革新を行い、厚みの声を特徴とします。よく演じる演目には『戦太平』『失空斬』『問樵闹府』『定軍山』『状元譜』などがあります。

→高庆奎

高慶奎(1890-1942年)は、賈洪林、賈麗川らに師事し、劉鴻声、譚鑫培などの名家からの指導も受けました。彼は各流派の技巧を学び、1921年に「慶興社」(後は慶盛社と改名した)を設立しました。甲高く激しい歌に長け、その芸風を「高派」と呼ばれるようになりました。『辕門斬子』『斬黄袍』などのほか、『盗符救趙』『史可法』『泣秦庭』『楊椒山参厳嵩』などの愛国劇を編纂・出演し、「南に周信芳、北に高慶奎」と称いう評判を博します。

→言菊朋

言菊朋(1890-1942年)は、譚鑫培に師事し、彼は音律を重視して繊細な唱腔で情を寄せ、婉曲で清幽な「言派」の唱腔を確立しました。言菊朋は清の朝廷に勤めていたが、京劇好きでプロの俳優となりました。程硯秋、尚小雲、楊小楼と共演したこともあります。得意な演目には『徐州に譲る』『臥龍吊孝』『汾河湾』などがあります。その芸風は子の言少朋が継ぎました。

→馬連良

馬連良氏は、「前の四大須生」と「後の四大須生」という二つの肩書を有する唯一の一人です。今年もちょうど馬連良氏の生誕120周年でも。彼は京劇界の里程標のような人物であり、彼が確立した「馬派」の芸術的影響は深遠です。

1909年、8歳の馬連良は京劇の「丑」役を演じる芸術家である蕭長華に選ばれ、「喜成成」クラスの学生になりました。これで、自分の京劇の生涯がスタートしました。最初馬連良は配役から演じ、または叶春善、蔡容貴、蕭長華など「老生」名家に教わりました。彼は「譚派」、「賈派」の芸風を好みます。

馬連良の生涯の最大の貢献は京劇の「馬派」という芸風を確立したということです。その唱腔は悠揚飄逸で、節回しに富んでいます。演出するとき、手、目、体、歩みを合わせて、キャラクターが潜む複雑な感情をリズム的ではっきりと観客に感じてもらい、独特の芸術的な魅力を持つ「馬派」という芸風を確立しました。数十年来、「馬派」は創立から成熟までに、長い道のりを歩んできました。その間、馬連良は自分の独特な思想と舞台に対する理解で、京劇の唱腔、扮装、脚本などの面で一一革新を行いました。

后四大须生

▲馬連良氏以外の「後の四大須生」

→譚富英

譚富英(1906-1977年)は、京劇の名門に生まれ、小さい頃から祖父、父の2世代の芸術家の薫陶を受けました。幼い頃、京劇の名家である蕭長華に師事し、老生を演じていました。その後、京劇の名家である余叔岩に教わりました。そのおかげで、歌いと武術の面ではしっかりとした基礎を築きました。唱腔は「譚(鑫培)派」と「余(叔岩)派」の芸風を受け継ぎ、自分の特徴も加え、質実で気前がよいという特徴を持つ「新譚派」と呼ばれる芸風を確立しました。

代表演目として、『失・空・斬』『戦太平』『定軍山』『桑園寄子』『四郎探母』『桑園会』『御碑亭』『群英会』などが挙げられます。

→楊宝森

楊宝森(1909-1958年)は京劇の名門に生まれ、祖父、伯父はいずれも有名な京劇の花旦です。10歳で舞台に上がり、余叔岩の演技芸術に専念しています。彼の唱腔は清らかで雅で、質実で濃厚な味わいを持ち、「楊派」と呼ばれています。彼は1950年代に芸風が成熟し、その主な成果はその鮮明な特色を持つ唱腔と演唱スタイルです。

代表演目には「碑にぶつかる」「清官帳」「伍子胥」「失空斬」などがあります。

→奚嘯伯

奚嘯伯(1910-1977年)は幼い頃から京劇が好きで、京劇の有名な「老生」言菊朋に認められ、その後言菊朋を師とし、譚派の演唱芸術を取り組んでいました。21歳に正式に舞台に上がり、後は上海に行って梅蘭芳の相手役を演じたことがあります。帰京した後、張君秋らと出演しました。彼はクラスの厳格な訓練を受けていないが、苦労して独学し、真剣に実践し、各流派の特長を取り入れていろいろ経験した末、ついに有名になりました。奚嘯伯は各流派の集大成であり、特別な存在でもあります。「奚派」の芸風の重点は「歌う」ことにあり、彼は一生をかけて「歌う」の規則を整理しました。

代表演目には「範進中挙」「泣霊牌」「白帝城」「二堂舎子」「蘇武羊飼い」などがあり、その中で、「烏龍院」が極めて有名です。

歴史的地位と芸術的成果から言えば、前後后四大須生に名を連ねた7人の芸術家は上下を定めることができず、それぞれ自分の芸風があります。2代の老生名家が歩んできた芸術の道から見ると、彼らは異なる時期にあっても、自分の老生の演技生涯で師の芸風を受け継ぐと同時に、革新を行い、後学を啓発し、歌、念、舞の諸方面においても自分の特徴があるものを創造し、独特な芸風を確立しました。(叶威 訳)

文・北京旅行網

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