歴史上の北京を訪ねて│明・清時代の北京城

2021-12-07

明清時代の北京城は現在の中華人民共和国の首都であり、中国の六つの古都の中で唯一首都の地位を継承した都市でもあります。それは中国の都市建設真髄の集大成とも言えます。

明成祖永楽元年(1403年)に北平という名を北京に改めました。永楽4年(1406年)に北京宮殿の建設に取りかかり、永楽19年(1421年)の正月に完成しました。15年間をかけて、正式に都を北京に定めました。

明代の北京城は元の大都を基礎に改築され、元大都の構造をほぼ維持していました。特に明代の北京城は大都城の中軸線を維持し、またそれを延長させてほかの建造物を加えました。都市の防御力を強化するため、北城壁を内側に窪ませ、南城壁を外側に拡張させ、また南城壁の外側に住民区を建てました。それで、北京城の「凸」字型の平面配置を形成しました。また、明の北京城は南京の故宮を手本にし、宮城を再建しました。

皇城壁遺迹、玉河故道、澄清閘などの旧城内の重要遺迹は考古関係者によって発掘され、展示され、明代北京城の歴史的風貌を見せています。

考古学の発見では、明の北京城の改築はさらに紫禁城の中心的地位と市全体の中心軸の奥行き知覚の効果を際立たせています。都市全体はもとの三重にさらに1重を加え、4重構造を形成しています。紫禁城は中央にあり、皇城、内城、外城という順で取り囲まれます。

宮城は紫禁城とも呼ばれ、今日の北京の明・清の故宮を指します。宮城は内城の中央部の南寄りに位置し、南北960メートル、東西760メートル、面積0.72平方キロメートルに達し、南北に長方形の形をしています。宮城には八門があります。南に五門と呼ばれる承天門(清代に、天安門に改められた)、端門、午門、左掖門、右掖門があります。東に東華門、西に西華門、北に玄武門(清代に、神武門に改められた)があります。宮城の中軸線には七つの主要な建物があり、乾清門を境にし、前と後に前朝後廷という二つの部分に分かれています。清代の紫禁城の建物は多くが再建され、名称も変えられたが、基本的には明代の規模を維持しています。

皇城は宮城の外にあり、南北の長さ2.75キロメートル、東西の幅2.5キロメートル、面積6.87平方キロメートルです。東に宮城、西に西苑(元代に西御苑と呼ばれる)、中部に太掖池(元代に太液池と呼ばれ、その後南海を増築した)があります。皇城には六つの門がありました。「真南に大明、東に東安、西に西安、北に北安、大明門を東に回れば長安左、西に回れば長安右」という言い方もあります。清の時代に、大明門を大清門、北安門を地安門に改名しました。

内城、すなわち元の大都城から改築されたもの、東西長さ6.65 キロメートル、南北幅5.35キロメートル、面積は35.57平方キロメートルです。真南は正陽門(すなわち前門)、左は崇文門、右は宣武門です。東南は朝陽門で、北は東直門、西南は阜成門、北は西直門、東北は安定門、西は徳勝門です。

明の嘉靖時代、皇城の安全性を高めるため、外城を増築しました。北京の外城は南城とも呼ばれ、東西の長さ7.95キロメートル、南北の幅3.1キロメートル、面積24.49平方キロメートルに達しました。内城と外城の面積は合わせて60.06平方キロメートルです。

北京内外城の街配置としては、各城門に通じる街は最も広く、その名の多くが城門の名前に由来します。崇文門大街、長安大街、宣武門大街、西長安街、阜成門街、安定門大街、徳勝門街などはその例です。住宅地は依然として坊と呼ばれ、住宅は典型的な四合院です。清代の北京の坊、街、巷、胡同には変遷と改名があったが、おおむね明代の規模を踏襲していました。

北京旅游网翻译

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