馬聚源帽子専売店は清・嘉慶16年(西暦1811年)に創立されたものです。店主の馬記はもともと露店商売を行っていましたが、儲かった金により前門外鮮魚口路の南側で店舗を開設した結果、商売が盛んとなりました。その後間も無く、馬記は清政府の張役人と知り合いました。馬聚源帽子専売店の帽子が精巧かつ上品なものと思う張役人は、清政府のための礼帽作りを馬記に委託しました。二人もこれで仲良くなりました。清・咸豊8年(西暦1858年)、馬記が病気でなくなりましたが、最期に、子孫が地元で農業を従事していて、商売を受け継かれる人がなくて、その店舗を張役人に売りました。権力も金銭も手に握っていた張役人は、店舗を受け継いだとたん、大量な投資を行いました。店舗は一部屋から三部屋に拡大され、店員が十数人から四十人以上に増えましたが、店舗名が「馬聚源」のままでした。
馬聚源は当時「官帽店」と呼ばれた通り、官帽や革帽子の制作を専門化し、種々のサテンの帽子を販売していました。民国時代において、馬聚源は「将軍盔」(おめでとう帽子)という品種を新たに発売しました。帽子の中心にあるこぶは「馬三針」という細工を採用したので、簡単ながらしっかりしており、馬聚源の特技といっても過言ではありません。
新中国が成立した後、馬聚源はまた漢民族および満、モンゴル、回、チベット、ミャオ、ヤオなどの少数民族風の帽子を販売開始しました。アメリカ風、ソ連風、トルコ風、通用式のプラッシュ綿帽子と新疆の少数民族の帽子など、柄の品種が百以上になりました。1958年、この帽子店は鮮魚口から大柵欄街に移転されました。改革開放後、馬聚源帽子店の横額は再び大柵欄27号にかけられました。これで、同店は「前に店頭、裏に作業場」の伝統に従って生産・販売活動を行い、また「本当の素材と精巧な細工」を継承・発揚させることで、馬聚源帽子店の上質という特色を顕在化すると同時に、人民に奉仕し、経済の繁栄に力を捧げてきました。