歴史上の北京を訪ねて│唐の幽州と遼の南京

2021-11-16

薊城は唐代に幽州城と呼ばれていました。「前に古人を見ず、後に来者を見ず。天地の悠悠たるを念い、独り愴然として涕下る。」唐代の詩人陳子昂の有名な詩「登幽州台歌」は、幽州城外の古跡薊北楼で創作されました。文献によると、幽州城は長方形で全城街道は碁盤状で、城中には子城を設け、坊(住民区)と市(市場)があります。

幽州城の具体的な位置はどこにあるでしょうか。城壁はすでに歳月の経過に従って消え失せ、その位置は地下の墓誌によって確認されます。北京の考古現場で大量の唐代の墓誌が出土しました。墓誌には一般的に埋葬の場所が記録され、それによって城の範囲を精確に判断できます。例えば、紫竹院で出土した盧公夫人の趙氏の墓誌には「府城の北西十里離れた所に葬られた」と書かれました。府城は幽州城で、これによって幽州城の西城壁の位置を確認できます。同じ方法で、王郅、仵欽、姚子昂などの墓誌を通じて南、北、東の城壁の位置が確定されました。

これらの墓誌の記載はヒントのような存在で、それを通じて幽州城の東城壁は今西城区の爛縵胡同と法源寺の間の南北線にあり、西城壁は白雲観土城台と小紅廟村の間の南北線にあり、北城壁は白雲観と髪胡同の一帯にあり、南城壁は白紙坊東西街の近くにあるということ推測できます。

遼の時代に、幽州は5京の1つである「南京」(燕京とも呼ぶ)に格上げ、北京都市史の序幕を開けました。遼の南京は基本的に唐の幽州城の城壁とレイアウトを踏襲しました。幽州城子城を宮城とし、住民区は依然として26の閉鎖式の里坊で、住民をよりよく管理するために坊門が昼開けて夜閉め、大多数の坊名もそのまま用いられています。遼代の墓誌を通して、盧龍坊、北羅坊、斉礼坊などの坊の位置を確定しました。城北部にある北市は燕京三市に拡大し、城内の東西を貫く大通りは今広内と広外の大通りの一帯にあり、南北を貫く大通りは今の牛街から南桜桃園の周辺にあります。【叶威 訳】

北京旅游网翻译

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