歴史上の北京を訪ねて│西周時代の燕国の遺跡

2021-11-02

1921年、河南省仰韶村での仰韶文化発見は、現代中国考古学誕生の象徴であります。今年はちょうど中国現代考古学誕生100周年を迎えました。何世紀にもわたる考古学は、中国の数千年の歴史に輝きを与えています。考古学によって、人々が千年の歴史の変遷と、至る所にある文物や遺物を通して輝かしい中国の輝かしい文明を見ることができるようにしました。

スウェーデン人のアンダーソン(1874~1960年)は1918年、北京市房山区周口店で動物の化石を発見し、続いて1921年にここで2本の人間の歯を発見しました。1926年、同氏は最初に「北京原人」という用語を提案しました。 1996年、長安街東方広場でも24000年前の遺跡が発見されました。ですから、北京の歴史の半分は地上にあり、半分は地下にあると言う人もいます。

それでは、考古の歴史の中で、北京という古都の起源を伝える重要な考古学の発見は何ですか?

西周時代の燕国の遺跡

今年4月、「北京の起源」と呼ばれる西周時代の燕国の遺跡、瑠璃河(るりが)遺跡の発掘調査は重要な成果が得られました。この前の考古学の調査により、北京の最も初期の都市は、房山瑠璃河に位置する西周時代の燕国都城であったということです。50年間の発掘調査の結果、この燕国都城の城壁範囲内の構造をがわかりました。城内には宮殿エリア、祭祀エリア、手工芸品工房エリア、市民生活エリアがあります。これは、北京城の建設の歴史が少なくとも西周時代の初期に辿ることができると示しています。

その後、「洞窟から出た人類の最も偉いの文化創造」と言われれる「都市」は、いまの北京が所在する平原を選択しました。周の時代、現在の北京には薊(けい)国(中国語版)の首都がおかれました。その後、漢の時代の薊城から魏、晋、隋、唐の時代の幽州城まで、遼の時代の南京から金の時代の中都まで、元の時代の大都の首都から明・清の時代の北京城まで、そして近代の北平へ。北京という都市は、3000年以上の歴史もあります。

瑠璃河古城の西部と南部は大石河(古代の聖水)に近いため、洪水にさらされることが多かったです。西周の後期に城壁も流されました。そのため、春秋戦国時代に燕が薊(中国語版)を滅ぼし薊へ遷都しました。瑠璃河に位置する燕国都城が廃れました。

北京旅游网翻译

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