中西折衷の北京近代建築

2021-02-23

昔の北京では、宮殿・民家・庭園・宗教建築などが古代都市建築の主体となっていました。近代に入ってから、北京の建築はさらに「包容」という特徴を備えました。そのうち、外来の建築文化を自発的に受け入れたもののほか、外来文化の浸透により受動的に改造したものもあります。さて、本日は北京における中西折衷の近代建築を一緒に見てみましょう。

初期の「洋館式」建築

頤和園の石舫

●頤和園は乾隆十五年(1750年)に建てられました。この大きな石船は乾隆帝と母が放生会を行った場所です。  ●1860年、船の上にある建物は元々中国式でしたが、英仏連合軍が中国に侵入した時に焼失されました。

●1893年、光緒19年に外国のクルーズ船をまねて再建し、元の中国式の船室を洋風の彫刻屋根に改造し、石舫の両側に2つの石造の洋風車輪を追加し、「河清海晏」の意味を取って「清晏舫」と命名しました。

船体の長さは36メートルで、建築面積は326.2平方メートルです。巨大な石の塊で積み上げられ、二階の船室棟は木造ですが、いずれも大理石の模様に塗装されています。上部はレンガで装飾されています。舫内は洋風のれんがを敷き、門と窓の上にも特製のカラーガラスを象眼し、華麗を極めた設計です。船頭の柱に綺麗な彫刻が刻まれ、梁の下に「清晏舫」と書いた横額が掲げられています。

石舫は実は中国の伝統的な木造の技術で作っもので、「清晏舫」の横額も中国式です。装飾は少し洋風の設計を入れただけで、 ただの船室棟ですが、北京建築史においては特別な意味を持っているので、「洋館式」における北京地区の代表作と言われています。

王府井天主堂にある中国式対聯(ついれん)

●1655年、「東堂」とも呼ばれた王府井天主堂、西暦1655年(清順治12年)に建てられました。

●1904年、現存する教会堂は光緒30年にフランスとアイルランドの遣使会が「北京議定書」の賠償金を使い、協力して再建したものです。総敷地面積は約1ヘクタールです。

境内の真ん中は東を背にして西に面している天主堂です。青石の台基の上に建てられたこの教会は、横幅は约25メートル、奥行きは约60メートルで、合计は约30間で、正面ははラテンの十字架の形になっています。ロビーの正面に三つの門があり、南北にはそれぞれ脇戸が設けられ、「1905」という文字が書かれています。

外壁は厚くて、窓はやや小さめです。扉と窓の上部は半円形のアーチリングになっています。ドームの上には三つのアーチトーチカが設けられ、上には十字架が立てられています。中央はやや大きく、両側はやや小さいです。堂内は18本の円形レンガの柱により支えられています。柱の直径は0.65メートルで、基底は四角形で、両側には受難の物語を語る油絵がたくさん掛けられ、典型的なローマ式教会です。

どう見ても洋風の建築形式ですが、正門の石柱には「庇民大徳包中外」「尚文宏勲冠古今」という対連がかかり、横額にも「恵我東方」と書かれ、中西折衷というところが印象的です。

瑞蚨祥店門

●1893年、瑞蚨祥呉服店は清光緒十九年に開業しました。国内外で有名な中華老舗で、北京の「八大祥」の第一号として認められていました。

●1900年に焼却されてから再建され、1901年に完成しました。建物全体はレンガと木材で構造され、お店と付属用の部屋の二つの部分から構成されています。店の平面は南北方向に伸びる長方形です。伝統的な建築屋根のユニット勾連搭(棟続き)から構成されています。

●入り口は二階建ての鉄製の天井で、それ以外は全部木材とれんがで構築されました。

●店の前には洋風の鉄製の屋根カバーが配置されています。

●南向きの立面は深い緑色で、上には白い大理石の彫刻が5つあります。中国の伝統的な「松鶴延年」「牡丹図」「蓮の図」などの柄が飾られています。

●中央部の入り口では淡い黄色と石の自然の色が採用されています。 この建物は全体的に中国民間の伝統的な作り方で構築され、表面は西洋建築の変形の設計を参考にしたものです。「中国民間が外来建築文化の影響を受けた模範」と言われています。

雲竜浮き彫り付きの正陽門東駅

●1903年に京奉鉄道正陽門東駅が建設されました。

●1906年に使用開始。

●20世紀60年代に鉄道部科学技術館に改造されました。

●2008年に「中国鉄道博物館」に改造され、2008年8月1日に営業を開始しました。 この駅はイギリス人によって建てられたので、全体の建築スタイルはイギリス風の特徴を表しています。壁は赤レンガで敷き、白い石材で飾りました。平面は四角形で、壁は「イギリス積み」を利用しました。つまり、煉瓦を長手だけの段、小口だけの段と一段おきに積むという方式です。しかし、待合室の壁面は弧状になっており、弧の両端に中国ならではの雲竜のレリーフを嵌めました。

龍は、中国の古代皇権の象徴として、長い間皇室専用でした。それなら、なぜ京奉鉄道駅に飾られましたか?

それは、京奉鉄道は北京と満清の故都の盛京奉天(瀋陽)を結んでいたからです。建築史の専門家たちによって「北京の特色を兼ねたイギリス風建物」と呼ばれています。

北京協和医学堂の大屋根

中国協和医科大学の前身は協和医学院で、さらにその前の前身は北京協和医学堂です。東単北大街路西に位置しています。

●1906年、英国のロンドン伝教会と他の5つの教会と協力し「協和医学堂」を開催しました。

●1917年、米ロックフェラー財団が投資し、東単三条胡同原豫王府に新校舎を建てることになり、二期に分けて建設した。そのうち、1917年から1925年までに14棟のビルが建設されました。設計担当はすべてアメリカ人で、全体はレンガの混構造です。

新校舎の建築群の建築材料は主にセメントとレンガで、その内部の内装は主に洋風ですが、屋根は廡殿頂式の(ぶてんちょう)の緑瑠璃瓦、中は瑠璃の軒、下は漢白玉台の欄干で、中国の古代の建築伝統を模倣したものです。遠くから見れば、青いれんがの壁の上に緑瑠璃の大屋根が非常に独特で壮麗です。

四合院における洋風装飾

四合院は北京民家の代表的な建築形式です。その典型的な配置は南北方向の主軸線上に北向きの母屋を置け、前に東西の厢房及び正面の母屋と向かい合う南の部屋を建て、それがで「四合」の由来です。そして、後ろの壁と塀で閉鎖的な邸宅を囲みます。

わりと大きな邸宅は主軸線に沿い、いくつかの「一正両廂」の中庭を配置し、多中庭になります。もっと大きな邸宅はいくつかの多进院が並み、花園付きのものもあります。

近代に入ってから、四合院も変化が生じました。例えば、洋風の建築は大事な装飾となりました。

後円恩寺胡同7-9号院は交道路口南大道の西側に位置しています。清末慶親王の奕劻氏(えききょう)の次男によって建られた中西合璧四合院で、北を背にして南に面しています。

庭の西側は伝統的な四合院、中部は洋式の二階建て、その前に円形の噴水池が配置られ、周囲は元円明園の石刻が飾られ、池の南東に花崗岩の西洋式円亭、東に築山と遊廊が置かれています。

抗日戦争勝利後、蒋介石氏の行轅となり、1984年に市文化財保護部門となりました。

「包容」は北京の近代建築における重要な特徴です。それは中国伝統文化の基礎であるだけでなく、時代の変化も反映しています。これらの建築形式はいずれも長い歴史の有形記録であり、重要な研究価値を有します。なので、社会全体が連携協力して保護する必要があります。【李翊菡(実習) 訳】

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