燕京八景:北京の景勝八選

2020-11-25

燕京八景(北京八景:燕京とは北京の古称)とは、金の章宗が選び、清の乾隆帝が足を運び、自ら題字を書き、石碑を残した北京の景勝八選。

金の章宗と清の乾隆帝の間には700年ほどの歳月があるが、風流を好むこの二人の皇帝には、美に対して相通じるものがあった。

およそ800年も昔の、金の章宗が選んだ「燕京八景」は、元、明、清と受けつがれたが、「金台夕照」については、清代に書かれた『燕京歳時記』には、北京東部の朝陽門外五華里(2500メートル・現、南壇付近)にあると書かれているが、乾隆帝御筆の「金台夕照」という石碑は、いまは姿を消して行方不明であり、「金台夕照」自体もどこだったのか、いろいろな説がある。

「燕京八景」が最初に文字として現われるのは章宗の明昌年間のことを記した『明昌遺事』という本で、この本に記されている「燕京八景」とは、居庸関の濃い緑を頌える「居庸疊翠」、徳勝門外に降る雨を思う「薊門飛雨」、盧溝橋の空に浮かぶ暁の月を捉える「盧溝暁月」、玉泉山に掛かる虹を描く「玉泉垂虹」、香山に白く積もった雪を愛でる「西山積雪」、北海(現在の北海公園の池)に浮かぶ瓊島の春景色を歌う「瓊島春陰」、北海の南に続く中海という池の秋景色を想う「太液秋風」、南壇あたりにあったのではないかという金台の夕景色を記す「金台夕照」である。

この「燕京八景」は、その後、元、明、清でも景勝の地として親しまれてきたようで、やはり風流皇帝だった清の乾隆帝(1711~1799年)は、そのすべてに足を運び、そこで題字を書き、それを石碑に残している。

この石碑の文字は、金代の「薊門飛雨」が「薊門煙樹」に、「西山積雪」が「西山晴雪」に書き換えられている。前者は明代頃から、後者は元代頃から変ったようで、いまでも北京海淀区薊門橋の近くにある薊門公園には、乾隆帝の筆による「薊門煙樹」の石碑が、香山公園には同じく乾隆帝の筆による「西山晴雪」の石碑が残っている。

北京旅游网翻译

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