北京・頤和園 王朝の歴史にピリオド打った皇室庭園(一)

2014-06-04

北京にある頤和園は、中国の典型的な皇室庭園であり、かつ最後に建造された皇室庭園でもある。1998年12月に、ユネスコによって世界文化遺産リストに登録されている。

頤和園(旧名・清蔬園)は、市街地から見ると西北郊外に位置し、清代の繁栄期であった乾隆年間(1736~1795年)に創建されている。乾隆帝は色を好まず、放蕩をきらい、ただ「山水の楽、懐に忘るあたわず」(『御制静宜園記』)を信条としていた。清蔬園の施工平面図や立体模型は、すべてみずから審査して、所管していた。清蔬園は乾隆15年(1750年)に着工、15年の歳月を経て、乾隆29年(1764年)に完成している。

北京の頤和園

乾隆帝が手がけた清蔬園は、歴代皇帝と同様に、その思想と好みによって造られている。乾隆帝の造園思想は「天人合一、皇帝権力至上の思想」「長寿不老の神仙思想」「享楽の思想」を合わせたものだ。そのため、清蔬園は歴代皇室の庭園や私家庭園、名山大川、著名な寺院の精華を融合させて、中国の典型的な庭園芸術の代表作となったのである。

頤和園は面積290ヘクタール、万寿山や昆明湖などで構成されている。園内の各種宮殿や庭園建築には、合わせて3000間(部屋)あまりがあり、その用途によって執政、居住、遊覧の三つの活動エリアに分けられていた。

昆明湖はもともと、北京の西北郊外を豊かに流れる泉水を引き、天然湖となった。乾隆帝が清蔬園を建造したときに、現在の規模へと拡大された。その水面は、頤和園の総面積の4分の3を占め、220ヘクタールにまで達する。湖上には東堤、西堤、南湖島、十七孔橋などの美しい景観を見ることができる。

高さ58・59メートルの万寿山は、燕山の余脈に属した小山で、その昔、昆明湖拡大のために掘り起こした土が、山の東西両側に積み上げられた。それが対称的となり、いまの姿になったのである。

山の南側は「前山」と呼ばれている。昆明湖畔の「雲輝玉宇」牌坊(鳥居型の門)から始まり、「排雲門」「二宮門」「排雲殿」「徳輝殿」「仏香閣」を経て、山頂の「智慧海」に至り、徐々に中軸線上なるにしたがい、巨大な代表建築群が配されるようになっている。この建築群の中央にある排雲殿は、清の光緒12年(1886年)、慈禧太后(西太后、1835~1908年)の誕生を祝うため、清国海軍の経費(白銀)を流用して再建されたことでも有名だ。排雲殿の前方には、排雲門と二宮門があり、この二つの門の間に造られた池には、漢白玉の「金水橋」がかけられている。東西両側には、それぞれ「配殿」と「耳殿」があり、すべての建築には回廊が渡されている。頤和園の中でも、もっとも雄大な建築群だろう。

仁寿殿は頤和園で皇帝が執政をしたところ

仏香閣は、高さ20メートルの石製台座の上に建つ、高さ41メートル、八角形三階建て、四重のひさしのある塔である。堂々とした構えから、頤和園のシンボル的な存在になっている。ここからは頤和園全体の景色を、俯瞰することができる。昆明湖の波はキラキラと輝き、竜王廟の香煙はゆらゆらと立ち上り、東堤、西堤の柳は青々と生い茂っている……。東を眺めれば、はるかに北京市街区の街並みが見え、西を望めば、美しいまでの玉泉宝塔や西山の山並みが目に入る。仏香閣の一階には、明代(1368~1644年)に鋳造された「千手千眼観世音菩薩銅像」が祭られている。

万寿山の北側は「後山」と呼ばれ、チベット仏教寺院の傑作・サムイェ寺(チベット自治区ダナン北部)を模したという建築群「四大部洲」がある。漢族とチベット族の建築様式を融合させたもので、壮大で鮮やかな色彩がある。これは、中国の各民族文化の交流をはじめ、当時のチベット地方政府と中央政府の緊密な関係を表している。残念なのは、清の咸豊10年(1860年)、中国を侵略した英仏連合軍により、ほとんど焼き払われてしまったことだろう。しかし近年、大規模な修復工事が行われ、四大部洲にふたたび乾隆時代の規模と輝きがよみがえっている。

四大部洲のふもとは、頤和園の後湖になる。後湖中央の両岸には、水際に多くの商店が建ち並んでいるが、それは乾隆帝が江南水郷の風景を模して、設計されたものである。当時、皇帝と皇后はよくここで舟遊びをしたという。商店の店員は、宦官たちに扮しているため、ここは「売買街」または「蘇州街」とも称されている。

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