七夕 織女牽牛伝説

2013-08-08

七夕伝説のおこりは中国である。もともとは、中国の織女(しょくじょ)牽牛(けんぎゅう)の伝説と、裁縫の上達を願う乞巧奠(きこうでん)の行事とが混ざりあって伝わったものといわれている。

織女と牽牛は夫婦なのであるが、仕事をせずに遊んでばかりいたので、1年に1日の再会以外は仕事、仕事の毎日を強制されるという儒教的思想の色濃いお話。昔の農民が「仕事、仕事」の毎日を哀れむために作ったのが七夕伝説の最初なのではないかといわれているが、中国の後漢のころ(1~3世紀)にはあったようである。

日本へは遣唐使などによってもたらされ、日本に従来からあった棚機津女(たなばたつめ)の信仰とが混ざってできたとされている。もっとも、その他にも琉球地方には羽衣伝説などと混ざった形で七夕伝説が伝承されており、正確にいつ日本に伝わったかは定かでない。

江戸時代には、書道学問の上達を願う行事となり、また、おり姫星とひこ星を引き合わせるため、たらいに水を張り、そこに2つの星を反射させてわざとたらいをゆらし、2つの星があたかもくっついたようにすることも行われていたようである。

この物語にまつわるお話はさまざまなものがあるが、ここでは、現在、広く語られている織女牽牛伝説を物語風にアレンジしてお話しょう。

織女牽牛伝説(しょくじょけんぎゅうでんせつ)

むかしむかし、天帝という神様が星空を支配していたころ、天の川の西の岸に、織女という天帝の娘が住んでいた。織女は機織り(はたおり)がたいへん上手で、彼女の織った布は雲錦と呼ばれ、色も柄も美しく、丈夫で着心地も軽い、素晴らしいものであった。

一方、天の川の東の岸には、牛飼いの青年、牽牛が住んでいた。牽牛は、毎日、天の川で牛を洗い、おいしい草を食べさせたりと、よく牛のめんどうをみる、働き者であった。

天帝は、くる日もくる日も、働いてばかりいる娘を心配して、娘の結婚相手をさがすことにした。そして、天の川の向こう岸に住む牽牛をみつけると、2人を引き合わせ…

「おまえたち2人は、まじめによく働く。牽牛よ、わしの娘、織女と夫婦(めおと)にならぬか?」

牽牛は恐縮したようすで

「天帝様、私のような者には、夢のようなお話しでございます。ありがたくお受けさせていただきます」

織女も、働き者の牽牛をたいへん気に入り、2人はめでたく夫婦となった。

ところが、一緒に暮らすようになると、2人は朝から晩まで天の川のほとりでおしゃべりばかりをしている。

これを見た天帝は

「おまえたち、そろそろ仕事をはじめたらどうだ?」

といましめますが、牽牛と織姫は

「はい、明日からやります」

と答えるばかりで、いつになっても仕事をはじめるようすがない。

織女が布を織らなくなってしまったため、機織り機にはホコリがつもり、天界にはいつになっても新しい布が届ない。また、牽牛が世話をしていた牛たちも、やせ細って、次々に倒れてしまいた。

業を煮やした天帝はとうとう、2人を引き離し、1年に1度、7月7日の夜だけ、天の川を渡って、会うことを許した。

今でも2人は、7月7日に会えるのを楽しみにして、天の川の両岸でまたたいているとのことである。

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