自然美と芸術美の究極の調和を追求する頤和園は北方山川の雄大さから江南水郷の秀麗さ、豪華な皇宮から精巧な民居の情緒まで兼ね備えています。頤和園内は宮廷区、万寿山、昆明湖の三つの部分からなり、そのうち万寿山は北方山川の雄大さの最大の体現と言えます。万寿山はもともと甕山と呼ばれていました。明代弘治7年(1494年)、孝宗の乳母であった佐聖夫人羅氏により甕山前に円静寺が建立(後に荒廃)されました。これ以降、甕山周辺の園林が次第に増加し、正徳帝は湖畔に行宮を建設し「好山園」と命名、皇室園林としての利用が始まり、また「甕山」を「金山」と、「甕山泊」を「金海」と改名し、正徳帝や万暦帝が舟遊びのため行幸していました。清朝の初期には宮廷の養馬場として牧草地となっていました。そして、乾隆帝の15年(1750年)、乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、清漪園(頤和園の旧称)を拡張しました。それによって、「昆明湖」が誕生しました。湖の掘削で発生した土砂は甕山の拡張に利用され、甕山も「万寿山」と改称されました。人工的に作られた万寿山は、高さが60メートルで、東と西の斜面が対称性を持ち、頤和園の主体部分となりました。1860年(咸豊10年)、アロー戦争で清漪園と隣の円明園は戦場となり、万寿山に頼って建てられた建築群も破壊されました。現在の建物は西太后によって再建されものです。麓の「雲輝玉宇」という文字が書かれた牌楼(はいろう)から、排雲門、二宮門、排雲殿、徳輝殿、仏香閣を経て、頂上の智慧海の海まで、下から上まで徐々に上昇する中心軸を形成しました。 ご存知のように、頤和園は乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝うために建てられたものであります。『中華遺産』という雑誌によると、上から頤和園を見下ろすと、昆明湖の形は長寿を象徴する桃のように見えます。また、両側が対称性を持つ万寿山は羽ばたいて飛ぶコウモリ(蝙蝠)のようです。中国語では「蝙蝠」(コウモリ)の「蝠」が「福」と同じ読み方をしているから、コウモリは常に「福」の象徴とされています。 しかし、頤和園に行ったことのある観光客は、そのレイアウトが「福寿」を暗示していることを知っている人はほとんどいません。また、これが意図的なものかどうかも不明です。