清の歴史の半分は恭王府にあり――恭王府

2010-12-07

王府(=皇族の邸宅)文化は中華民族の伝統文化の重要な一部として、貴族文化と庶民文化とのつながり役を務めています。北京西城区の前海西街にある恭王府は、中国における現存する王府の中では、もっとも無傷で保存されてきた清の王府であり、全国重点文化財保護部門として、中国の王府文化の代表役を務めています。

歴史乾隆四十一年、西暦1776年、和珅はこの前海を東に望み、後海を背にしたところに彼の豪華な邸宅を築き始めました。当時は「和第」と呼ばれました。明の時代、弘治の年に大太監に勤めた李広もここに家を築いたことがあったという説もあります。清の嘉慶四年、旧正月三日に、当時の皇帝の父すなわち弘歴は死去しました。その翌日に嘉慶皇帝は和珅の軍機大臣と九門提督という2つの重役を免じた上、和珅の家財を没収しました。その金額は白銀8億両もあったと言われ、国の総収入の十数年分にも相当する莫大の金額のために、「和珅は失脚、嘉慶は満腹」という言い方もありました。同年旧正月十八日、即ち西暦1799年2月22日、和珅は自決を「賜わられ」ました。その邸宅も、「国より豪邸」と言われた皇帝の弟の慶僖親王=永璘が所有することになりました。一方、和珅の息子の嫁となった乾隆の娘である和孝姫は、そのまま邸宅の半分に住んでいました。咸豊元年、西暦1851年、清末の重要な政治家である恭親王=奕䜣が邸宅の三代目の持ち主となり、その名も「恭王府」と改められ、今日まで使われ続けてきました。「清の歴史の半分は恭王府にあり」というのは歴史地理学者の侯仁之氏によるコメントです。民国初年、この邸宅は、恭親王の孫である溥偉によって、40万元銀貨の値段で教会に売られたが、補仁大学によって108本のゴールドバーで買い戻され、女子学校として用いられることになりました。新しい中国が成立した後で、邸宅には公安部の宿舎、送風機工場、音楽学院など、複数の機構が入居したことがあります。

地理的情報恭王府について、「月牙川が竜のように宅を巡り、遠くに見える西山はうずくまる虎の如し」という描写が史書にあります。その場所は絶好の位置にあるということです。昔の人は、家を建てる時に風水を非常に重要視していました。北京には竜脈が2本あると言われます。その一は土の竜、即ち故宮の竜脈であり、もう一つは水の竜、後海と北海を通る直線を指します。恭王府はちょうど水の竜という竜脈に位置するため、風水絶好のところとされています。昔の人は、水をお金と見たもので、恭王府も至るとこるに水が見られ、湖の水は玉泉湖から引かれています。その水は中にしか入らず、外には流れないことも、風水学で言う財を収める見解に合っています。恭王府辺りに住んでいた中国の10大名将と郭沫若などは、みな非常に長生きしました。また、北京では長寿の年寄りがいちばん多いと言われているところは、ほかでもなく恭王府辺りなのです。ここはまさに北京の宝です。風光明媚の北京什刹海の南西方角には、青い柳がなびいている長くて静かな路地があります。その路地の先には、ある王府が立っています。そこは、現存の王府の中でもいちばん無傷で保存されてきた恭親王府です。恭親王府の前身は、清の乾隆の年の重役である和珅の屋敷と、嘉慶皇帝の弟の永璘の屋敷でした。

立地恭王府は中国でいちばん無傷で保存された王府建築で、表の邸宅と裏の庭園という二つの部分からなっています。一般公開をめぐって30年前から議論されてきました。1975年、周総理は病床に横たわったまま、谷牧氏にまだやり終わっていない三つの要件を頼みました。その一つは、恭王府の公開についてでした。王府の敷地面積は約3.1万㎡で、中、東、西という三列の建物に分けられ、正確な中軸線で貫かれ、たくさんの四合院からなっています。邸宅は広いだけでなく、建築の基準に対しても非常に厳しいです。その点は正殿と別殿の数からもよく分かります。恭王府には、5宇、正殿7宇、後殿5宇、寝室7室あり、左右両脇に別殿があります。親王より地位の低い人の邸宅では、絶対にその数を超えてはなりません。また、建物の設計と瓦の色も真似してなりません。恭王府の中、東、西の三列にはそれぞれ三つの中庭があり、奥のほうにある二つの中庭は観光の主な区域です。

銀安殿俗に銀銮殿と呼ばれるが、恭王府のもっとも重要な建物です。王府の正殿として、重大なイベントや祝日の時にしか開放されない、儀礼のための建築です。民国初年に、火事で焼けてしまい、大殿と東西の脇にある殿も焼けました。今の銀安殿は復旧されたものです。この建物は和珅時代のものです。今でも「嘉楽堂」という扁額が掛けてあります。その扁額は乾隆皇帝が和珅にくださったものと推測されているが、署名も印判もないため、証明する由もありません。しかし、和珅によって書かれた『嘉楽堂詩集』があることから、そこは和珅の部屋だということになります。恭親王の時代では、嘉楽堂には先祖や神々の位牌が置いてあり、シャーマニズムの儀式をはじめ、王府の祭典の場とされてきました。

親王の屋敷風光明媚の北京什刹海の南西方角には、青い柳がなびく長い静かな路地があります。その路地の先には、ある王府が立っています。そこは、現存の王府の中でもいちばん無傷で保存されてきた恭親王府です。恭親王府の前身は、清の乾隆の年の重役である和珅の屋敷と、嘉慶皇帝の弟の永璘の屋敷でした。恭王府は清の親王の邸宅として、整った立地、優れた技術、広大な設計などを持って、皇室の高貴さと庶民文化の地味さを共に演出しています。恭王府は邸宅と庭園の2つの部分からなっており、南北長さは330メートル程度で、東西の幅は180メートル余りあります。敷地面積は61,120㎡で、邸宅と庭園はそれぞれ32,260㎡と28,860㎡を占めています。

内部構造邸宅の建築は東、中、西という三列に分けられ、各列は南北方向の正確な中軸線で貫かれた複合式四合院からなっています。中の列ではいちばん重要な建築は銀安殿と嘉楽堂であり、殿の屋根は青色の琉璃瓦を用い、中の列の風格が良く表されたと同時に、親王の身分をも強調しています。東の列の表にある母屋の名前は多福軒です。広間の前には200年以上も元気に生きてきたフジがあります。これは北京では滅多に見られない風景です。東の列の裏にある母屋の名前は「楽道堂」で、当時の恭親王奕欣の居間でした。西の列の四合院は比較的に小さく見えます。主な建築は葆光室と錫晋斎です。中では立派な錫晋斎は傑作で、広間には美しいクスノキでできた仕切りが飾ってあります。錫晋斎は和珅が紫禁城の寧寿宮の設計を倣ってつくったものです。(僭上の罪を犯したため、のち自決に追い込まれた彼の「二十か条の重罪」の一つです)。邸宅のいちばん奥のほうに二階建ての後ろ母屋(母屋の後方に建てられる)があります。東西の幅は156メートルもあり、裏の壁に窓が88個設けられ、中には108の部屋があります。俗に「99間半」と言います。この設計は道教の教義に従うものとされています。

庭園名は「朗潤園」もしくは「粋錦園」で、俗に恭王府庭園と呼ばれます。園内の景色を見れば、まるで山や川のあるところを歩いているような気分です。邸宅と呼応しているように、庭園も東中西という三列にわけれられています。中の列の入り口は、洋風の白色の大理石でできたアーチ形の門です。中心部には康熙皇帝のご親筆の「福」という文字の石碑があります。表には独楽峰と蝠池、奥には緑天小隠と蝠庁があり、興味深い立地です。東の列にあるきれいに飾られた舞台の広間で、紫の花を咲かせた藤を観賞すれば、まるで目の前に芝居が展開しているような雰囲気です。舞台の南側の明道斎、曲径通幽、垂青樾、吟香酔月と流杯亭という五つの景色でもう一つの庭園を演出します。庭園の中では、高く聳え立つ古木、ずらりと並ぶ怪石、山水の間に点在する亭や建物を訪ねる観光客の到来を待つ小道や回廊が回っています。月光の下では庭園はまた別天地になります。多くの観光客は、山水と小道とが語ってくれるその夢のような思い出を楽しむために来ています。恭王府は前海西街に位置し、1776~1785年に築かれました。もともとは清の乾隆皇帝の寵臣である和珅の私邸でしたが、嘉慶の年、汚職の罪で処刑された彼の財産は没収され、この私邸も慶王に贈られました。同治皇帝の時、恭親王奕忻が西太后の政変に協力した手柄で、この邸宅を西太后から頂き、恭親王府と名付けられた経緯があります。

雄大な規模恭王府の規模が非常に大きいです。敷地面積は約6万平方メートルあり、邸宅と庭園からなっています。それぞれ建築群が30ヵ所あり、こだわりのあった立地と立派な風格で人々を魅了しています。庭園の別名は錦翠園で、立地と設計のレベルはかなり高いです。庭園は紫禁城にある寧寿宮を写したものです。園内は「山」文字の築山に取り囲まれており、東南西のほうは全部土石で山を築き、中の列では房山の石で洞窟をつくりあげ、頗る巧みな技術です。山頂にある展望台は庭園の最高点であり、園内の景色を眺めるのにいちばん好都合です。恭王府の邸宅と庭園の豪奢な設計、回りくねった部屋や中庭が演出してくれる風光明媚な景色があまりにも美しいため、『紅楼夢』に登場した栄国府と大観園はもしかしてここではないかといったような噂さえ出ています。恭王府は清の親王の邸宅として、整った立地、優れた技術、広大な設計など、皇室の高貴さと庶民文化の地味さを共に演出しています。恭王府は清の道光皇帝の六番目の息子恭忠親王の邸宅です。前身は乾隆の時の大学士である和珅の邸宅でした。嘉慶四年(1799年) 和珅が失脚し、邸宅は没収されました。のち、嘉慶皇帝はその一部を弟の慶僖親王の永磷に与え、慶王府となりました。その後、咸豊皇帝が邸宅を回収し、弟の奕沂に贈りました。これで恭王府になりました。咸豊、同治の年には邸宅の裏に庭園を増築するなど、改築されたことがあります。邸宅の主人である奕忻は一等の貴族です。だから、邸宅は広いだけでなく、建築の基準に対しても非常に厳しいです。その点は正殿と別殿の数からもよく分かります。恭王府には、5宇、正殿7宇、後殿5宇、寝室7室あり、左右両脇に別殿があります。親王より地位の低い人の邸宅では、絶対にその数を超えてはなりません。また、建物の設計と瓦の色も厳しく規定されています。

福の文化清の皇帝は、毎年の春節にいつも自分で大きな「福」の文字を書き、部下に対する天子のご恩として手柄を取った貴族や役人に賜ることになっています。それを頂けた人も「福」の文字に込められた皇帝の信頼を感じ、これから大いに活躍し、とんとん拍子に出世するに違いないだろうと、喜びの極まりです。康熙皇帝は生涯書道を好んでいたが、書道が上手なわりに、滅多に人に字を題しなかったため、歴代の皇帝の中では、残された書がいちばん少ないです。それで「康熙の一文字は千金に値する」という言い方が出たわけです。特に、康熙は「福」という字がお気に入りで、長年にわたってその書き方を研鑽していました。それはどうも昔の人にしてみれば、皇族であろうと庶民であろうと、一生をかけて「福」を求めているのかもしれません。恭王府の「福」字の石碑は康熙の直筆です。密雲洞に隠れているため、「洞天福地」(道教でいう神仙の住む名山勝境)という熟語の語呂を合わせます。康熙が書いたこの「福」字には力が入り、迫力が伝わってきます。右上の形は「多」という字に似ており、下には「田」があります。また、左側の偏は「子」と「才」に似ており、右側の部分は「寿」に似ています。全体的に見れば、この「福」の文字は、「田も子も才も寿も福も多い」という意味に取ることができます。これは「福」を巧みに解釈した、芸術性に富んでいる、興味深い発想です。もっと大切なのは、石碑の右上のところに、福を逃せないよう、康熙皇帝の印が刻まれていることです。そのため、この「福」の字は世界一の福と言われるようになったのです。恭王府の邸宅の前身は乾隆の重役である和珅の私邸で、のちに慶王府、恭王府となりました。「多福軒」は王府東路の二宮門内のいちばん表にある完全な四合院です。邸宅の重要な建築物で、通時的な変遷を研究することと、科学技術を生かした保護や修復は怠ってはならない仕事です。恭王府は当初和珅の私邸だから、東の列にある「多福軒」は和珅家の生活した場所のはずです。乾隆五十四年、固倫和孝姫が和珅の息子の嫁になったので、関連史料と古代の習慣から考えれば、和珅は「多福軒」をはじめ、東の列にある建物を姫様の住居としたものと思われます。和珅の失脚後、西の列にある建物は慶王永璘に贈られたし、東の列で発見された高級彩色画からも分かるように、「多福軒」などの東の列にある建物は固倫和孝姫が亡くなるまでずっと住んでいたと思われます。慶王府時代、回収された後の「多福軒」の持ち主は誰かについては、資料が不足しているため、まだ判明していません。恭王府時代、「多福軒」は奕欣が来客を接待した場所となり、特殊な歴史的な価値があります。また、爵位と邸宅を受け継ぎ、清が滅びるまでそこに住んでいた溥偉は、清が復活運動にかけた借金を返すために、恭王府の財産を天主教会学校に売却することを余儀なくされました。補仁大学の時期では、「多福軒」は女子学院の図書館とされていました。1949年以降、スタジオとして芸術関係の部門に扱われ、2002年になってはじめて、中国文化部恭王府管理処に管理されることになりました。史料の研究や現状などを踏まえて考えれば、「多福軒」はできた日から今日まで、固倫和孝姫の入居時と恭親王奕欣入居時に大きな修復の工事を行ったが、それ以外は需要に応じた日常的なメンテナンスでした。「多福軒」の歴史における地位と特殊性と対照になった現状から、一刻も早く修復作業に取り掛かる必要性を切に感じています。文物局とユネスコの働きかけを契機に、恭王府管理センターが熟考の上、専門家たち、設計業者、建設業者とともに努力し、文化財修復の原則を守ることを前提として、歴史的資料に基づいて復原作業を行い、科学的な理念を元に「多福軒」の修復作業を行っています。近い将来、修復後の「多福軒」は再び開放され、古代の王府建築の本来の姿と風貌で文化財の魅力を人々に伝えることを楽しみにしています。

建築の研究恭王府は寵臣和珅の私邸を元に改築されたものです。当時彼が問われた二十か条の罪には、内装の「僭上」問題などがあります。たとえば、その中の第13条には、「調査によれば、和珅の家には、楠木でできた広間もあり、その格子棚と仕切りの門と窓は寧寿宮の設計に倣っている」とあります。その点からも分かるように、恭王府の内装は王府文化の中でも独自の性格を持っているのです。一、宮殿の建築にも勝るぐらいの最高の格恭王府の主な広間の内装は格子棚、仕切りだけではなく、仙楼、神殿、毘盧舎那帽子付きのかまど祭りなどの内装も朝廷用のものと変わりません。室内の築山と池で室内の小型庭園に飾られ、面白い発想です。二、数多くの多種多様な建築物 見取り図からも分かるように、当時の内装付きの建物は20箇所以上にもあり、種類もたくさんあります。たとえば、太師壁、宝座床、青糸の棚、かまど、万字のオンドル、茶卓の足の覆い、スタンド式の覆い、オンドルの覆い、真偽の門、仙楼、本棚、格子棚、順山オンドル、前・後軒のオンドルなどなど。三、柔軟な仕切り方による多様な空間づくり恭王府の中では、各広間の空間は機能によって柔軟に分けられています。メインの広間には、厳かな広々とした空間もあるし、プライバシー向けの小さな空間もあります。また、対称になっているのもあり、非対称的なものもあります。そのほかに、自由に組み合わせることが可能な空間もあります。その機能から見れば、要人を接待するものもあるし、シャーマニズムの祭りに適合したものもあるし、リビングルームもあるし、寝室のような部屋もあります。つまるところ、各種のニーズに対応できるように間取りになっています。四、技術でものを言う念入りな仕上げ恭王府の内装のものから見れば、当時は全部堅木を使用し、材料に異常なほどこだわっていることが分かります。加工された木材には細かい切断面も作られ、彫刻の模様も正確です。また、円形や曲線で各種の柄が描かれたが、それは高精度の加工のうえでしかできないようなもので、舌を巻くぐらい難しい施工でした。しかし、残念なことに、元の内装は今日になって、ほとんど失われています。王府文化を研究することによるノウハウを生かし、今後の王府博物館のニーズに合わせて、当時の豪奢ぶりを再現することを目指しています。

関連情報住所:前海西街17号アクセス:13、42、107、111、118、810、850、814などのバスで行けます。入場券:70元(入場券、専任の説明係、見学可能な観光スポットと展示場、王府大戯楼を見学し、そこで北京伝統の出し物を鑑賞し、王府のふた付き湯のみでお茶を飲んだり、お菓子を食べたりする)。王府を見学するだけであれば、40元を払えば良いです。学生の方は20元一人です。グルメ恭王府の畔の「厉家の料理」北京の後海の北側と南側に、清の時代のもっとも大きな2つの王府が位置しています。醇王府と恭王府です。恭王府の東側に羊房胡同があります。場所は広く見えないが、その中には世界有名なレストランがあります。それは、厉家料理レストランです。レストランのオーナーは厉善麟氏で、店長は王暁舟女史です。厉家料理は宮廷料理に属しており、そのレシピも技術も家伝のものです。厉善麟の祖父厉子嘉氏は、清の同治と光緒の年に、内務府都統に勤め、朝廷内の食事を管理し、西太后からも深く信頼されていました。西太后は皇太后として執政した時期においては、食事も皇帝と一緒にとることになっていました。毎回の食事の料理の種類は百種類以上もありました。「伝膳」という指示が下ると、長い行列を作った太監たちは、膳卓と食器を担いで一列になって入ってきます。厉子嘉の仕事は、朝廷内のそれらの食べ物を管理することです。毎日、メニューを作成し、台所で料理の質などを検査するなどを担当していました。西太后と皇帝が食べる一品一品の料理は、彼がまず味見します。それで、月日の経つうちに、彼もグルメと料理人になったわけです。その後、厉子嘉は朝廷料理のレシピと作り方を息子の厉俊峰に教え、それはまた孫の厉善麟に伝わりました。厉善麟は料理において優れた才能を持ち、家伝の技術を受け継いだうえ、現代の理解と自分の発想に基づいて絶えず新しものを作り出しました。たとえば、彼が模造した西太后の日常料理「燕翅席」は格別に気が利いています。一番目の料理は前菜で、炒咸什、醤油胡瓜、蝦子芹心、芥菜墩、北京熏肉、鳳乾鶏、琥珀桃仁、桂花糖藕、玫瑰小枣、炒紅果などがあります。二番目の料理は加熱料理で、黄焖魚翅、白扒鮑魚、软炸鮮貝、浇汁活魚、焼きダックと清汤燕菜等;三番目の料理,鳥・魚の卵と鶏スープ、炒卵羹、核桃甘酪などがあります。厉家料理は登場してすぐ、話題となりました。その料理は、ある料理コンクールで来場の観客を驚かせ、最高賞を受賞しました。イギリスの大使は厉家料理のレストランで料理を食べながら「これはすばらしい。宣伝など要らない。大使館区域で話したら、ここはドアも開かないほど客が来るよ」と言いました。案の定、何日後、各国の中国駐在の大使やグローバル会社の管理者たちが殺到してきました。あの様子では、半月前に予約しておかないと、きっと席をとることができないでしょう。厉氏のレストランのスタッフは三人しかいません。彼と奥さんのほかに、娘も加わっています。彼の夢は企業家になることではなく、むしろ中国の古い料理文化を人々に伝えることにあるのだと言えます。彼は1943年補仁大学を卒業し、教授をしたことあり、流暢な英語が話せます。奥さんは医科の大学出身で、小児科の医者に勤めたことがあり、日本語が堪能できます。レストランでは、中国人より外国から来たお客さんが多いようです。欧米お客さんが来た場合、厉氏が接待するが、日本のお客さんが来れば、奥さんが対応します。アメリカの元国務長官ベイカー、カナダ総理クラーク、ボクシングの王者アリ、コンピューターの天才といわれるビル・ゲイツなどもレストランのお客さんでした。そのほかに、台湾や香港から来たお客さんも数少なくありません。ジャッキーチェンや汪明荃などがあります。

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