古都风貌 新旧交融的特色街区——南锣鼓巷

2010-12-07

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南锣鼓巷は北京で一番古い町であり、25箇所の企画文化財保護区の保護対象でもある。町は北側の鼓楼東大通りから南へ続き、地安門東大通りまで全長786メートル、幅8メートルである。元大都(1267年)に工事完了し、基盤のような並び方をしている伝統的な住宅団地として現在もわが国ではよく保存されてきた大規模的、高品質な元代風景の建築物と言われている。 歴史・文化的背景——

「無傷で保存されてきた碧玉のように」宮廷外側の東に宗廟(そうびょう)(先祖の霊を祭る御霊屋のことを言う)、西に社稷壇(しゃしょく)(社稷とは、社(土地神を祭る祭壇)と稷(穀物の神を祭る祭壇)の総称。 天壇・地壇や宗廟などとともに、中国の国家祭祀の中枢を担う。)が設置され、宮廷内側の南に朝会の場所があり(皇帝が毎朝臣と軍事政治要務を討論する例会)、宮の後ろに市場を置く。このような建築構造に従い建てた元の都の市場は南锣鼓巷という。さらに、その時代から南锣鼓巷を中線に、都を半分に分けた。東側の地区を昭回坊、西側の地区を靖恭坊と呼ぶ。清の乾隆年間、南锣鼓巷は镶黄旗の所轄区だが、光绪年終わりの頃から宣统年間に渡り、内左三区の所轄区になり、民国の時、また内五区に変更した。本通が北から南に走っている、東から西に続く8本の通りが平行に並び、全体の布局は魚の骨のように見えるが、ムカデのようにも見える。したがって、南锣鼓巷の別名は「ムカデ巷」だ。8本の通りは縦に並び、本通に横から切断され、西側の通りは南側から順番に福祥胡同、蓑衣胡同、雨儿胡同、帽儿胡同、景阳胡同、沙井胡同、黑芝麻胡同、前鼓楼苑胡同、東側の通りは炒豆胡同、板厂胡同、东棉花胡同、北兵马司胡同、秦老胡同、前圆恩寺胡同、后圆恩寺胡同、菊儿胡同と呼ばれている。もともと、元の時代に今の名前ではなかったが、明の時代から今の名前で呼ぶようになった。例えば、菊儿胡同は明の時代に局儿胡同と呼び、その後橘儿胡同の名前へ変更し、清の宣统年間、今の名前になった。她里坊とは旧中国で一つの住宅団地の呼び方で、都建設企画では基本ユニットの呼び方として使われている。秦の前、她里坊を「里」、「闾」、「闾里」と言う。北魏から「坊」の呼び方が現れた。唐代の長安は世界で一番大きい都であり、108の坊から成った。元の都も「里坊制」(坊を建築単位として都を建てる)を倣って、50坊によって建築した。坊の間は広く真直ぐな町であり、町並み全体は基盤のようだ。明の時代、北京は28坊で分けられていて、合併した二つの坊を「昭回靖恭坊」と称する。あそこは清の時代に、镶黄旗の所轄区だった。南锣鼓巷の旧名は罗锅巷だが、乾隆15年(1750年)に製作した「全城全図」で表記された名前は南锣鼓巷である。現在、南锣鼓巷の北に鼓楼東大通り、南に地安門東大通、西に地安門外大通り、東に交通口南大通がある。その四本の街に囲まれた長方形の地区は元の時代に出来た二つの坊だった。南锣鼓巷を境界にし、東側にある地区を「昭回坊」と称し、西側のが「靖恭坊」と呼ぶ。こうして、南锣鼓巷は坊と坊の分界をなす巷となった。唐の時代に建てた長安の里坊は既になくなった。「里坊制」によって作った元代の建築も800年余りの歴史を経て、すっかり変わってしまった。だが、南锣鼓巷はもとのままに近い状態で残されてきた。胡同の構造はあんまり変ってなかった。中に官邸、中庭付の屋敷などいろいろな建築様式が点在している。ここは北京という古い都で、無傷で保護されてきた碧玉といっても過言ではない。こぬか雨が止んだある午後、私は再び南锣鼓巷に来た。北京真夏ならてはの暑い天気はこの雨のお陰で涼しくなってきた。近年の南锣鼓巷はおしゃれな人々、国外の旅行者の注目を集めている。理由は新世紀の始めから、いつの間にこの町でいろんなバー店が出来た。現在の南锣鼓巷は三里屯、什刹海の後で出来たもう一つのバーストリートだ。色で例えば、三里屯のバーストリートはカラー、什刹海のバーストリートは朱色、南锣鼓巷のバーストーリは藍緑色だ。この評価は単なる色の例えだけではなく、文化背景を色で語っているのかもしれない。ここ一本の胡同にでもかなりの歴史文化があり、一つの屋敷は一つの物語である。

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