「牛」の路地――北京と牛に関わる歴史の記録

2010-12-07

北京では「牛」の文字をつけた地名は少なくないといえる。元の時代に、羊角市という所には米の市場、麺類の市場、羊の市場、馬の市場、駱駝の市場や驢馬の市場など合わせて7つの貿易市場があった。明の時代に変わってから、町には牛房、牛房路地、牛肉路地、牛血路地、牛角路地などの地名が出てきた。清の時代になって、「牛」と名付ける路地が増し、3つの牛角路地、3つの牛棚と6つの牛角湾以外、牛犄角路地、牛排子路地、牛八宝路地、牛蹄路地、牛油路地、牛肉湾と牛街もあるようになった。民国時代、それらの地名は殆ど保全された。「牛蹄路地」を「留題路地」に変名するように旧名が美化された例もあった(牛蹄と留題の中国語発音は似ている、留題は景勝地などを訪れ、感想や意見を書き残すとのことで、より上品な言葉だといえる。)――史料により、「美化」は清の時代の末に警察制度を行う際に実施されたのであった。その他、改名されたのは牛毛路地と牛児路地などもあった。

二十世紀六十年代まで、既述した「牛」と名付ける路地は合併したり、改名したりし、牛八宝路地、牛児路地、牛通り、牛通り一丁目から六丁目まで、及びに東、西牛角路地、前、後牛湾しか残っていないようになった。風雨に渡り、時代が移り変わってきたが、やはり牛はわが北京の二ラウンド通りに自らの足印と牛乳香りを残っている。「牛」と名付ける地名にわざと牛街を語るのはあらゆる路地には牛街はより名高いからである。牛街は今時の北京西城区に位置し、南北に走っている広い大路地である。北は広安門内大通りと接し、南は棗林前街や南横西街と交わり、棗林前街や南横西街の境界線になっている。牛街は都が燕京と呼ばれる遼の時代に作り上げられたもので、悠久な歴史があるといえる。当時の牛街は燕京の北門の拱辰門と南門の開陽門をつなげる大通りであり、即ち北は今の東、西太平街の交点とつながりながら、南は白紙坊大通りと接している通りである。西の方へ向かって、今の棗林前街を経て、まっすぐ行くと、遼の時代の皇居の東門の宣和門の入り口に着ける。都は中都と呼ばれる金の時代にも、牛街は相変わらず大通りであり、城内の崇智門と景風門に貫いていた。元の時代では、都は北の方に移り、大都と呼ぶようになった。中都は旧都として荒廃された。明の嘉靖皇帝の時代になるまで、外の旧城を都に入れてから、やっと牛街の所在地は再び北京都の一部分になった。当時、牛街には数多くの小路地があり、香り路地、巴家路地、目家路地、贾家路地と王老路地などがある。その他、南花庭、呉家橋もある。その後、呉家橋は呉家橋一丁目路地、呉家橋二丁目路地、呉家橋三丁目路地になりつつあった。清の時代になると、既述した路地は殆どなくなちゃった。その南西の空き地には墓地と菜園はあちこちにあり、貧困で寂しさ極まりない。北京の他の旧街の如く、牛街にも仏教と道教の寺がかなりある。元の時代、長生観があり、倒壊した後現地で道士観が建築されたんである。清の康熙帝の初年、牛街の北の方には峨眉禅林が作られた。以上の寺と観のみならず、牛街にはより名高いモスクでもあり、即ち明の成化十年(紀元後1474年)に勅旨による建築された「礼拝寺」である。中国古典式の宮殿とアラビアマスクが融合された建築で、立派で荘重し、長い歴史がある牛街の象徴物になる。牛肉の味わい北京の数多くの「牛」に関わる地名からすると、北京生活は牛と離れて語ることが出来ない。王朝の都においては、牛は豚、羊とともに皇居と寺の祭祀用の供え物として使われ、「大太牢」として知られている。一方、「少太牢」には牛がないため、牛の地位が豚と羊より高いことは明らかに分かる。皇家の先祖を祭る際には牛は欠かせないものである。清の時代の場合、清朝皇室の史料により道光三十年(紀元後1850)旧暦七月一日から咸豊元年(紀元後1851)旧暦六月二十九日までの短い一年間には、朝廷は祭祀のため使った黒い牛は254頭に達した。大清王朝は合わせて267年間存続していた。これによって計算すると、まさか67800頭以上の牛も使われた。ちなみに、その数には溥儀の小朝廷は故宮の三大殿以外に生活を送っていた(退位した後)期間中に殺した祭祀牛が含まれていなかった。牛は牛耕文化の生産工具のため、そんな巨大数の牛が祭祀に殺されたのは牛にとっても、人間にとってもなんと大きな損失であろうか。牛は祭祀用の供え物ばかりではなく、現実世界に人々の山海の珍味にもある。北京の幾つかの「牛棚」の地名は史上の牛屠殺産業とは深い関係がある。もっとも目立つのは鼓楼の近くに位置する「牛棚」であり、隣には「湯鍋路地」という路地がある。「湯鍋」というのは当年家畜を屠殺する時、毛をむしるために熱湯をかける大鍋でありながら、屠殺場の別名でもある。牛棚から牛を引っ張ってから、牛肉を取り、なんだか両全といえる。首都の北京には、皇帝と貴族は言うまでもなく、普通の人々ですら金銭に余裕があれば高価な珍味を食べるのは稀ではない。だからこそ、北京城内には八方の珍味が集まり、陸上と河海の食材がそろっている。中には醤油で煮た牛肉がある。幾つかの醤油煮た牛肉を扱っている老舗が出てきた。前門外の大柵欄門枠路地に位置し、劉家老舗と知られている「復順斎」はその一つである。「復順斎」の醤油煮た牛肉は肉が柔らかく噛み易いし、しつこくないし、香味深い。文人がそれを酒のさかなにするのみならず、武芸者も朝稽古がおわったら体に栄養つけるために劉家老舗へ醤油煮た牛肉を何キロかを買いに行く。味がうまいため、かつて劉家老舗の醤油煮た牛肉は皇帝専用の膳として指名されていた。九城には月盛斎は醤油煮た羊肉で有名になるが、醤油煮た牛肉も色、香り、味三拍子揃っているため北京全城に知れ渡っている。西単牌楼の二丁目の位置している恒瑞老舗の醤油煮た牛肉は当年は煮るや否や売り、熱いうちに食べればおいしい上に柔らかいから、独特の雰囲気を持っている。もう一つは「小月盛斎」として知られ、牛街に位置している「聚宝源」でもある。月盛斎の伝統な秘法を使うため、月盛斎の醤油煮た牛肉にひけをとらない。聚宝源にはもう一つのうまい料理があり、いわゆる柔らかい煮込みの牛肉である。熱いうちにはおいしいし、冷たくなっても後味深く、うますぎて食べきれない。鎮海神牛牛は体が逞しく、筋肉隆々で、力抜群のため、祭祀と食用以外水利上にも瑞獣として使われている。昔、北京城内には海を守る神牛がある。具体的に云えば、石造の牛首であり、今の什刹海の徳勝橋の西側の橋脚の上方にはめ込んでいる。什刹海に向かっている。その牛は石壁の前に六十センチぐらい突出し、首が斗の如し、目が星の如し、歯が刃の如し、角が鋒の如し、威風堂々として生き込んでいる。まるで眼前の水を一気に飲む気がしているようである。この鎮海神牛は徳勝橋畔の永泉寺と真武廟の坊主たちの出資で彫刻されたものである。当時は北京城の目立つ風景として、崇文門鎮海寺の鎮海神亀と積水潭汇通祠の水分れ石竜(角のない竜)と合わせて北京城の鎮海三宝と呼ばれている。時代の流れに従ってその三つの宝物もう行方不明になってしまった。

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