十三陵ー定陵

2012-06-07

北京の中心から西北へ約50㎞、昌平県の天寿山南麓にあるのが「明の十三陵」である。その中に、明王朝の13人の皇帝の陵墓が散在している。今まで公開されているのは永楽帝の陵墓--「長陵」、隆慶帝の陵墓--「昭陵」、万歴帝の陵墓--「定陵」の三つだけである。

定陵は第13代の万歴帝と2の皇后の陵墓。万歴十二年(1584年)から万歴十八年に落成し、建築が立派だし、材料もよい。明楼、宝城、陵門などの重要な建築はよく保存されて、400年あまりの歴史もある。定陵は明の十三陵にの第十基の墓によって建った遺跡博物館である。

定陵の地宮は十三陵に唯一開発された地下宮殿である。地下宮殿は深さ27m下、そこは前、中央、後、左、右の五つの石式の殿宇で構成されている。地下宮殿には棺や副葬品が置かれ、面積は950㎡を達する。地下宮殿から出土した多くの文物には、金器、銀器、磁器、玉器、絹織物など約3000件があった。明代の政治、経済、文化発展と帝後の葬式、服などの多種問題の研究として、富む実物と科学基準を提供してある。

歴史・由来

定陵は万暦皇帝と二人の皇后が葬られる墓である。万暦皇帝は明朝末期(16世紀の末から17世紀の始めまで)に生きていた。明の皇帝に在位した時間が一番長いが、悲劇の一生を持っている。

1572年、ただ10歳の万暦は皇帝になった。母は彼が有望な君主になってほしいから、万暦皇帝は儒家の思想などを勉強しなければならなくて生活は味気なかった。能力もあり、朝政も自分で扱えるとき、また大臣によく牽制された。とても圧抑していた。唯一の楽は賢い鄭貴妃だけだった。万暦皇帝は皇位を鄭貴妃の息子に伝わりたいが、大臣たちに反対された。変えられないから、不思議な方法で抵抗していた。在位していた48年の中に30年は故宮のハレムに隠居していた。最後の20年は大臣たちに会わなく、国家の政務も麻痺したようになった。

1620年万暦皇帝と皇后は死んで、同時に定陵に葬った。何年前病気で死んだ皇后もここに埋めた。鄭貴妃は10年後死んだが、国家に災難を与える女と認められ、定陵に葬る権利を得なかった。万暦皇帝は最後までも愛している女と一緒に葬られなかった。

コレクション:四つの国宝が出土された。金冠、鳳冠、夜光の真珠、明三彩。

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