中国古代四大芸術の一つ:囲碁

2012-08-14

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中国古代四大芸術と呼ばれるものには琴、棋、書そして画というのがある。この中で棋というのは囲碁を指す。

囲碁の誕生

では、実際に囲碁が誕生したのはいつごろのことなのだろうか。今から約4000年前、紀元前2000年に中国の伝説上の人物、堯(ぎょう)・舜(しゅん)が作ったという伝説もあるが、定かではない。それは、「歴史が始まった時にはもう囲碁があった」と古人にいわしめた程、古くから囲碁が打ち継がれてきたからだ。

一方で、農耕技術の進展につれ正確な暦を持つ必要性が生まれ、そこから天文学が発展し、その知識と当時の思想観から囲碁が生まれ、諸侯、文化人そして民衆に広まっていった、という説もある。この説によれば、「天元(てんげん)」と呼ばれる碁盤の中央にある点の一子は四方に号令する君主のようなもので、この一子を除く360は陰暦の日数と同じだが、これらを四分して春夏秋冬の季節とみなせば、一つの季説は一隅に当たるということになる。また外周を七十二候にたとえ、局面を天地に、石の黒白を陰と陽になぞらえた、と見ることもでき、当時天文学から派生した易学を学ぶための帝王学であったとも考えられている。

それでは碁盤の大きさは昔から今のような大きさに統一されていたのだろうか。甘粛省の水昌(すいしょう)県というところで見つかった原始社会の陶器の器にこの碁盤の目を描いたと思われる図柄が見つかったが、これには縦横12本の線だけが刻まれており、現在のような19本の線ではなかった。しかし、その後湖南省の湘陰(しょういん)県で見つかった唐代の古墳から出土した碁盤には15本ずつの線が描かれていたし、内蒙古で見つかった遼代の古墳では13本ということで、囲碁は原始社会においてすでにその原型が作られており、実際に線が縦横何本になるのかということについてはある日突然現在の形に定まったのではなく、全国各地で規模の異なるものが用いられ、変化を繰り返す中で次第に形成されていったというのが定説とされている。当初は天文学や、易学等を研究するための道具として用いられていた囲碁が、民衆の間に娯楽として普及したのは春秋・戦国時代と言われている。

中国の棋士

では、中国で最初の棋士とはいったいどんな人物なのだろうか。それはいまから2600年前、『孟子』の中で登場する「弈秋(えきしゅう)」という人物だ。記載によれば、戦国時代の初期に活躍した人物であったと見られている。さて、この春秋戦国時代には数多くの棋士が登場していたようだが、当時は賭け事などと並ぶ娯楽の一つとしてしか見られていなかった。あの孔子ですら『論語』の中で、「碁を打つのはみな暇な人間で賢者や君子となる人物ではない」という言葉で、囲碁を取るに足りないものという見方をしていた。孟子も同様の見方をしており、「囲碁を打つ人間は酒好きで、親孝行もせず、囲碁を打つことも五つの親不孝の一つである」とまで言われていた。しかし、やがてそんな囲碁の地位も囲碁の理論が徐々に形成されてゆくことで高まり始める。『左伝』の中での太叔文子(たいしゅくぶんし)という人物の理論は、囲碁の発展の歴史を見るうえではとても重要な意義を持っているといわれている。漢の時期には杜夫子(とふし)という人物が天下一の名手とされていた。三国時代の曹操は囲碁にも長けていたが、その息子曹丕(そうひ)が権力争いのために弟の曹彰(そうしょう)を対局中に毒殺するとは思わなかっただろう。当時の理論書としては班固(ばんこ)の『弈旨(えきし)』というものが残されている。その学生であった馬融(ばゆう)という人物も数々の法則を見つけ、発表した。

又、この時代には縦横19本からなる碁盤が16本のものと並存、やがて普及したのではないかといわれている。それでは、古代の対局を記録した最古の棋譜として残っているのは、誰と誰のものかご存知だろうか。呉の国の孫権の兄、孫策(そんさく)と功臣の呂範(りょはん)との対局の棋譜が当時の『忘憂清楽集(ぼうゆうせいらくしゅう)』という書物の巻頭に掲載されている。これは後の時代になって作成したものではないかとも言われ、現在も議論が続いている。

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