北京自来水博物館探訪

2012-10-22

北京東直門の立体交差橋の東北角に、「清水苑社区」(社区は中国独特の地域コミュニティ)がある。名前を聞いて、この場所と水との関係を思い浮かべる人もいるかもしれない。実は、この場所こそ、北京第一号の浄水場の所在地であり、社区の一角には「北京自来水博物館」(「自来水」は水道のこと)が設けられ、北京の水道の起源と発展を記録している。

北京の水道の物語

3000年以上の都市の歴史を持つ北京でも、水道の出現は、わずか100年前のことである。長い間、北京の住民は、自ら井戸を掘り浅層の地下水を利用してきた。清朝の光緒年間には、北京には、1200カ所以上の井戸があったが、その多くが苦水であったといわれる。20世紀に入ると、清朝の多くの洋務運動の志士、それに商人たちが清政府に対し、浄水場の建設を提案した。けれど、最終的に浄水場が建設されたのは、防火が背景だった。当時の北京城内では、頻繁に火災が発生しており、水がないために火災がきたす損害は膨大なものだった。

光緒33年(1907年)8月、西太后は当時の軍機大臣、袁世凱にむかい「防火の良策は?」と尋ね、袁世凱は、「水道水でございます」と答えた。一年後、農工商部大臣が浄水場の建設を上奏すると、10日もたたないうちに許可された。

1908年、「京師自来水有限公司」が北京において成立し、これは北京の水道会社の第一号となり、当時の浄水場は東直門に設けられた。現在、博物館のメインホールは、当時の蒸気機関がおかれた作業場であり、その脇の煙突、配水ポンプ室、時を告げたやぐらなども当時の施設のままである。すでに1世紀が過ぎているとはいえ、建物は依然として良好な状態で保存されている。

東直門の浄水場の設備はドイツから輸入されたものであり、工期が長かったため、水道水は1910年になってようやく市民に供給された。当時の水道水は、北京周辺の孫河を水源にしており、その水は、パイプを通って東直門浄水場の濾過設備に入り、処理ののち、配水場から北京に供給された。

水道水の使用は社会文明の一大進歩である。けれど、水道水に慣れない市民の多くにとっては、当初は、なかなか受け入れがたいものだった。水道会社は様々な方法を用いて普及させようとしたが、水道の建設は非常に時間がかかった。けれど、水道水の発展につれて、北京には、メーターの検査を行う「査水先生」「水票」といった特殊な職業グループと事物が出現した。新中国の時代に入るまで、東直門浄水場は、北京市民の唯一の水道水供給地だった。

北京と「南水北調」

新中国の成立以降、市民の必要に応じるべく、北京政府は浄水場の建設に尽力した。20世紀、5~60年代、北京は6カ所の浄水場を続けて建設し、また郊外に複数の浄水場を建設し、地下水を主な水源とする新しい都市給水体制を築いた。

20世紀、70年代に入ると、人口の増加と経済が飛躍的に発展し、北京の水道使用量は激増した。1972年の給水ピークには、一日の不足量は15万トンにもなった。のち給水の問題を解決するため、北京市は相次いで大型のダムを2基建設した。

1978年の改革開放後、中国社会は高速の発展期に入り、北京の水道水は大きな進歩を遂げた。2004年に入ると、北京市にはすでに18カ所の浄水場があり、給水パイプの長さは、7600キロ以上にもなり、給水サービスに関する面積は600数平方キロにもなる。

現在、北京は1300万人あまりの人口を擁する大都市であり、水道水はすでに新しい期間に入ったといえる。北京自来水公司は、全市の浄水場に対し、統一配分、自動化処理が実現している。また、水質の検査と処理のレベルは、高い水準を保っている。

古代、北京には河と湖が多く、清水の泉が街のいたるところにあった。しかし、気候の変化と人口増大により、北京はすでに世界的にみても深刻な水不足の都市となっている。北京市の水問題を解決するため、中国では、「南水北調」プロジェクトをすすめている。このプロジェクトは、長江の水を北方へ運び、長江、黄河、淮河、海河の四大河をつなげ、中国南北統一の水資源の配分を形成するものである。2008年9月、「南水北調」プロジェクトは、河北省から北京にいたる部分が竣工し、河北省の水が北京に絶え間なく流れ込んできている。「南水北調」のプロジェクトがすすむにつれ、北京をはじめとする北方都市の水資源問題はさらに緩和される。

中国の南宋の学者、朱熹の有名な詩句に「渠の水がなぜこれほどに清いかを問うと、源の生きて動く水が来ているから」とあるが、それは水道水にもっともふさわしい描写といえるだろう。

博物館住所:北京市東城区東直門大街甲6号院

開放時間:水曜~日曜9:00~16:00

電話:010-6465-0787

(人民中国インターネット版)

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