北京っ子の故郷——胡同

2012-11-02

北京では、広い街道のほか、小さな路地は一般に「胡同(フートン)」と呼ばれている。「胡同」とは、金(1115~1234年)元(1279~1368年)時期のモンゴル語の発音に由来し、後に北京方言になったものである。"北京で名のある胡同は990本、名のない胡同は数え切れない"とお年寄りはよく言っている。生粋の北京っ子でも、胡同の数は実際には分からないだろう。

胡同の幅はそれほど広くなく、両側には煉瓦敷きの平屋が並び、屋敷一軒一軒にそれぞれ異なる大門を持つ。繁華街の喧騒からは離れており、静かで居心地よく、都市に住む人々にはオアシスだ。代々胡同の平屋に住んできた生粋の北京人は、自分たちの、中庭を囲んだ平屋の屋敷と胡同の町並みを深く愛している。

北京は古くから企画の整った歴史ある都である。その規模と都市構造は元代の大都市を基盤に、補修や補強を加えて徐々に築き上げられた。当初、北京は皇宮紫禁城を中心にし、街道は全て南北に排列された。正規の胡同は紫禁城付近の東と西の両側に集中し、街道に沿って南から北へ並び、ここに住む人々は殆ど皇族や貴族であった。紫禁城を離れた南と北の両端には商人など庶民の住む胡同がたくさんあった。

元代に都市を建設した当時、街道と胡同の広さ、また胡同間の距離にはそれぞれ細かい規定があった。現在に残る北京市内の一部の胡同にも、当時の規格がそのまま保たれている。

新しい街道や胡同ができると、住民たちが自ら覚えやすい名前を付ける。地元のシンボルなるもの、例えば環境、地形、逸話や著名人物などが命名の決め手になった。針眼胡同を例にとれば、路地の狭さは自転車ですれ違う間隙さえない。八道湾胡同は、八つの曲がり角があるという意味だ。金魚胡同の、その昔金魚を売っていた場所は、今では高層ビルが建てられて現代的な五つ星のホテルに変身した。北京はあまりにも広く、胡同も数多くあるため、胡同の名はまちまちで、同名なものもかなり多かった。箭杆胡同だけで10数カ所もあったが、都市の改造が進んで、現在ではこのようなことはなくなった。

胡同の長いものでは、曲がっても曲がっても同じ名前の道が続くが、短ければほんの3軒から5軒ほどの家が並ぶばかりである。

都市はめまぐるしく変貌している。入り組んだ胡同や、封鎖的な小さな四合院は、むろん社会の急速な生産・発展と文化の急激な移り変わりにそぐわなくなってくる。多くの住民がすでに新築の住宅ビルに引っ越した。これらの胡同は、古い生活用具のように、次第に都市の記念品となりつつある。

それでもまだ、北京の市区では胡同が3分の1の面積を占めており、北京っ子たちの故郷は失われてはいない。もしも胡同を一つ一つ綴れば、歴史の交錯をそのまま凝縮した北京の"万里の長城"ができあがるだろう。

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