京劇名人俳優/青衣・花旦(二)

2012-12-01

尚小雲(1899-1976)

本名は徳泉、字を綺霞。河北南宮人。

幼い頃に李際良が創立した三楽科班で学ぶ。名前を尚三錫として最初は武生を学んだが、のちに張zhi[くさかんむり+止]quan[くさかんむり+全]、載韵芳から旦を学ぶ。また、路三宝から花旦の芝居を学ぶ。陳徳霖の門下に入り、王瑶卿から指導を受けて、李寿山から昆劇の芝居を学ぶ。孫菊仙、楊小楼、余叔岩、譚小培、王又宸、馬連良らと共演を重ね、のちに自ら劇団も結成する。その芸風は武功に優れ、次男の尚長麟、楊栄環、孫栄惠などが受け継いでいる。また張君秋、劉元tong[丹+彡]、李世芳、李世来なども彼から指導を受けている。ほかに老生の徐栄奎、李甫春、馬長礼、武生の尚長春、孫瑞春、浄の景栄慶、尚長栄など、かつて主宰した栄春社でも多くの人材を輩出している。また戯曲学校では謝鋭青、鮑啓瑜、李翔などがいる。

荀慧生(1900-1968)

本名を秉彝、秉超、字を慧声、号を留香、芸名は白牡丹。河北東光県人。

幼い頃よりPang[广+龍]啓発から河北bang[木+邦]子の花旦を学び、八歳の時に天津で舞台に登る。1910年から北京に渡り、侯俊山(十三旦)から芝居を学ぶ。翌年三楽社科班に入り、薛蘭芬、路三宝から京劇の青衣と花旦を学ぶ。尚小雲と趙桐珊と三人合わせて「正楽三傑」と呼ばれた。のちに呉菱山、王瑶卿、陳徳霖に拝師。田桂風、曹心泉、喬惠蘭、程継先、李寿山、孫怡雲らから指導を受ける。1918年に喜群社に入り京劇を演じた。のちに自ら留香社を結成。陳墨香、陳水鐘らと新しい芝居を次々と創作していった。

于連泉(1900-1967)

本名を桂森、字を紹卿、芸名を筱翠花。原籍は山東登州、北京生まれ。

幼い頃に郭際湘(水仙花)が主催する鳴盛和科班に入り、名前を盛琴、芸名を小牡丹花としていた。のちに富連成科班の「連」字科に入り、芸名を筱翠花に変える。卒業後斌慶社で演じ、のちに自ら劇団を結成する。田桂風に拝師し、路三宝、余玉琴、侯俊山、王瑶卿からも学ぶ。特に花旦のQiao[足+喬](纏足)功に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした。弟子の毛世来、陳永玲がよくその芸を受け継いでいる。

趙桐珊(1901-1966)

名を久林、号を酔秋、芸名を芙蓉草。河北安次人。

幼い頃に三楽社科班に入り、bang[木+邦]子の花旦、のちに京劇の花旦を学ぶ。卒業後、春慶班、福慶班で公演をする。後に上海で王鴻寿、周信芳らと共演して人気が出てくる。王瑶卿の門下に入って田桂風から指導を受ける。多才なことで知られ、南通伶工学社、華東京劇実験学校、東北戯曲学校、中国戯曲学校で教鞭をとり、人材の育成に多大な貢献をした。

程硯秋(1904-1958)

本名を承麟、最初の頃の芸名を程菊衣、のちに艶秋、1932年から硯秋にする。字を御霜。北京生まれ。

六歳の時に栄蝶仙に拝師して武生を学ぶ。後に陳桐雲から花旦、陳嘯雲から青衣を学ぶ。十一歳の時に初舞台を踏む。孫菊仙、劉鴻声と共演し好評を得る。声変わりの後、閻嵐秋(九陣風)、喬惠蘭、謝昆泉、張雲卿らから指導を受ける。また、梅蘭芳に拝師し、さらに王瑶卿からも指導を受ける。高慶奎、余叔岩らと共演して名声を高め、しばらく自ら劇団を結成することなく北京、上海で公演を重ねた。レパートリーは豊富で、唱中心の青衣から台詞中心の花旦、動きが中心の刀馬旦の芝居のほかに昆劇も芝居も演じた。羅ying[やまいだれ+嬰]公、金仲sun[くさかんむり+孫]、翁偶虹らインテリの協力の下、多くの芝居を手がけた。程派の唱は特徴があり、演技も実に細かい。荀令香、陳麗芳、王吟秋、趙栄chen、李世済、新艶秋などがいる。

張君秋(1920-1997)

本名を滕家鴻。租籍は江蘇丹徒。北京人。母・張秀琴は河北bang[木+邦]子の青衣。

十三歳の時に李凌楓に拝師。青衣の居を学ぶ。王瑶卿の影響を強く受け、のちに尚小雲、梅蘭芳に拝師。1942年に謙和社を組織して主演をつとめる。中華人民共和国成立後、北京京劇団に参加し、馬連良、譚富英、裘盛戎らと共演する。四大名旦たちの唱い方に自らのノドの良さを融合させた芸風を確立した。弟子は全国各地に数多くいる。

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