東廟隆福寺

2013-01-21

「東廟」と称される隆福寺は、北京東城区の隆福寺街北にかつて存在した大規模な寺院である。史料によれば、明の景泰3年(1452)に建造が着手され、翌年に完成した。

隆福寺、明景泰中所建也。在崇文門北、大市街之西北、今其地稱隆福寺街。明景泰三年興安用事、佞佛甚於王振、請帝於大興縣東大市街之西北建大隆福寺、費數十萬、以太監尚義、陳祥、陳謹、工部左侍郎趙榮董之、四年三月功成。寺之莊嚴興隆并、三世佛三大士殿處二層三層、左殿藏經、右殿轉輪、中經毗盧殿至五層、乃大法堂。雍正元年重修、世宗御制碑文。又明碑一、為景泰建寺記。逢月之九、十日有廟市、至今為諸市之冠。

隆福寺が大規模な寺院であったことはこの記載からも想像できる。また落成した後には、皇帝が行幸しており、もって朝廷がいかにこの寺を重視していたかが分かる。

主要な建築としては、山門・韋駄殿・大雄宝殿・万善正覚殿・毗盧殿・金剛殿・大法堂などがあったとされ、大伽藍を構成していた。そして長らく、北京の代表的な寺院の一つとして栄えた。むろん、その廟会は全北京に冠たるものであった。喇嘛僧も住持していたため、喇嘛教(チベット密教)系の寺であると思われがちであるが、実際には一般の僧侶の方が多かった。一般の僧と喇嘛僧が同時に居住できる寺であるのが、また隆福寺の特色である。もっとも、清朝末期に至ると、寺院としての勢力自体は徐々に衰退していったようである。

また、清の光緒27年(1901)には、失火により伽藍の一部が大火に見舞われ、韋駄殿や鐘楼などの建物は灰燼に帰してしまった。その当時では、寺には殿宇を建て直すだけの力はなく、更地のままとされたようである。但し、その広い場所は、かえって芸人たちにとって表演の絶好の舞台となったという。

その後、ますます商業活動の方の比重が重くなり、「百貨倶備、游人甚多、絶不禮佛」という状況となるに至った。隆福寺の廟会では、衣服や食品などの日用品から、骨董・宝石・美術工芸品などの奢侈品、それに書籍など、ありとあらゆる商品が扱われた。なかでも、古書店が非常に多かったことで知られている。廟会は、旧暦毎月の九・十の逢日に行われていた。

辛亥革命の後、隆福寺の廟会はますます盛んであったと言われる。そのため、廟会の日をそれまでの九・十の逢日から、さらに一・二の逢日を加えることになった。

ところが、1937年の日華事変を境に、隆福寺の廟会は衰退に向かう。1949年の中華人民共和国成立の後、この地は東四人民市場と位置づけられ、まったく単なる市場として扱われることとなった。1985年以後には、近代的な商業ビルが建てられ、寺廟であった面影はますます失われることになった。

しかし、1995年になると、前面にかつての隆福寺の姿に似せたビルが建築され、その正面には、かつての「隆福寺」の牌が掲げられるに至った。しかし、もちろんこれは寺廟として建てられたわけではなく、単にコンクリート作りの商業大廈であるに過ぎない。また観光向けといった要素も強い。しかし、このような形でも隆福寺という名が復活したことは、やはりかつてのこの寺とその廟会が、北京の歴史において、いまもなお強い印象として残っていることを示すものとは言えよう。但し、かつての大伽藍の建築については、ほとんど往事を偲ぶべくも無いほど毀されてしまっている。

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