龍門と虎門の由来

2013-09-29

天安門の前は現在長安街というメインストリートになっているが、ちょうどこの通りにかつては長安右門と長安左門という門があり、外部から天安門には直接入って来れないようになっていた。

この二つの門のうち、長安左門は「龍門」と呼ばれていた。登竜門の「龍門」である。

中国では「科挙(かきょ)」というとても厳しい官吏登用試験が行われていた。郷試、会試、殿試というのが主な科挙の試験である。郷試に合格したものが、会試を受け、会試に合格したものが殿試を受ける。そして最終段階の殿試の最終試験には皇帝自らの面接テストが行われるのである。この殿試の最高位の合格者三名は一位から「状元(じょうげん)」、「榜眼(ぼうがん)」、「探花(たんか)」といわれていた。

さて、殿試のあと二日後に合格者の発表がある。紫禁城にて合格者の名前が呼ばれるのであるが、呼ばれた後、管理人によって長安左門に名前の書いてある立て札が運ばれ立てられるのである。合格発表の前、それらの受験生たちはなんの功績もない普通の人であるが、名前が書かれた立て札がその門をくぐったときに、その人たちは官吏としての第一歩を踏み出すことから、鯉が「龍門」をくぐって龍になったの故事にたとえられ、「龍門」と呼ばれるようになったのである。

もう一方の長安右門は「虎門」と呼ばれていた。と言うのは、死刑囚が最後の死刑宣告を受け、刑場に向かう門だったからである。

死刑の最終宣告は秋と冬に行われた。冬の場合には霜降まえに死刑囚は天安門前の西千歩廊で最終的な刑の宣告を受け、冬至の日に長安右門から、宣武門を経て、刑場(菜市口)に向かった。運良く、最終宣告を受けないものもあったようだ。それらの死刑囚たちは、一年命を永らえたと、家族が首に赤いサンザシの実をかけて祝ったという。しかし、最終宣告を受けたものたちは、「虎の口に入って行くがごとく」であったことから、この門は、「虎門」と呼ばれたのであった。

かたや「龍門」、かたや「虎門」……。この二つの門は、現在はないものの、かつては向かい合って存在していたのであった。

ちょっと蛇足になるが、この同じ時代に「東は生をつかさどり、西は死をつかさどる(東邊掌生、西邊掌死)」という言葉があったという。現在の天安門広場の西側にはかつて軍や裁判やそれに関したお役所が並んでいた。それでこのあたりは「生死街」と呼ばれていた。反対に東側は、お金や、皇族、貴族がかかわるまつりごとについてのお役所などがあった。そのことから「富貴街」と呼ばれていたそうである。

現在は、天安門が残るだけで、お役所もそして、長安右門、長安東門も残っていないが、世界に誇る広い広場には、このような歴史があったのである。

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