王府の今と昔

2013-10-31

北京の中心を南から北へ抜ける「王府井」と呼ばれる通りがある。ここは、北京の銀座ともいわれる繁華街だが、その名の由来は、ここにあった清王朝の王府(皇族や貴族の邸宅のこと)の井戸の水がとても美味しかったことから、この一帯が王府井と呼ばれるようになったそうだ。こうした清王朝(1644~1912年)の王府の跡は、現在の北京の百数十ヶ所に残されているが、その多くは学校や、公園、事務所、病院、工場、さらには高級料亭…に姿を変えている。

中国の音楽の最高学府である中央音楽学院も、清第九代皇帝光緒帝(1874~1908年)が生まれた醇親王南府の跡地に建てられたものだ。広い中央音楽学院の敷地の片隅に、当時の南府の建物が残された一角がある。散歩がてらここに足を運んで清王朝の興亡史、とりわけここで生まれ育った光緒帝のこと、浅田次郎さんが『珍妃の井戸』で描いている珍妃との悲恋や絶対的な権政者西太后に阻まれた宮廷改革…などなど光緒帝がからむ一幕を偲ぶことができる。

百数十ヶ所あるといわれる北京の王府の跡地の中でいちばん昔の面影を留めているのは醇親王北府だろう。その名からも分かるように、ここも醇親王一族の王府で、光緒帝が即位したあと清王朝のしきたりで、南府は「潜竜邸」(即位した皇帝が昔住んでいた屋敷には人が暮らすことは許されない)となり、新たに皇帝から授かった王府だ。北京西城区の北にあったので、南の南府に対して北府と呼ばれていた。

ところが、清王朝の第十代皇帝、ラストエンペラーとして知られる宣統帝(1908~1912年)、つまり溥儀(1906~1967年)がこの醇親王北府で生まれ育っているので、宣統帝即位とともに、ここも「潜竜邸」となるが、清王朝が1912年に崩壊し、宣統帝はわずか五年の短命皇帝となり、皇居(故宮・紫禁城)から追い出され、醇親王北府に逃げ帰っている。

新中国誕生後、醇親王北府は国家衛生計画生育委員会(厚生省)のオフィスとして使われ、その花園は国家名誉主席だった宋慶齢さん(孫中山夫人)の住まいとなった。ここは「宋慶齢故居」として一般公開されているので、清王朝に、そして孫中山・宋慶齢に興味のある方は、ぜひ足を運んでみてください。かれこれ二十数か所のこうした王府跡に足を運び、二百六十余年続いた清王朝の興亡史を学ぶ上で、とても役に立つだろう。「CRI日本語版」

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