皇帝の祖廟太廟の歴史

2013-11-04

太廟はフエの皇城(阮朝王宮)内の太和殿の東側に南向に位置している。背後(北側)には肇廟がある。嘉隆3年(1804)に建設されたとされるが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)、実際にそれ以前の嘉隆元年(1802)8月1日に仮に建立されたものが最初である(『大南寔録正編』第1紀、巻之18、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年8月己亥朔条)。その後嘉隆3年(1804)3月に肇祖廟・皇考廟とともに改めて建立されたのである。嘉隆元年(1802)に建立したものはあくまで仮のものと考えられていたのである。また太廟は明の太廟の制度に倣っていた(『大南寔録正編』第1紀、世祖高皇帝寔録、巻之23、嘉隆3年3月庚辰条)。同年9月に完成した(『大南寔録正編』第1紀、巻之25、世祖高皇帝寔録、嘉隆3年9月条)。

嘉隆6年(1807)7月1日には黎文豊を責任者として太廟が修復し(『大南寔録正編』第1紀、世祖高皇帝寔録、巻之33、嘉隆6年7月朔日条)、嘉隆18年(1819)2月にも張進宝・阮文雲・阮科明らに修復させ、その徭役にあたった兵士に銭5,000緡を賜っている。この時祭器もまた修理している(『大南寔録正編』第1紀、巻之59、世祖高皇帝寔録、嘉隆18年2月丁丑条)。明命元年(1820)2月には太廟の神厨・神庫が修理され(『大南寔録正編』第2紀、巻之1、聖祖仁皇帝寔録、明命元年2月辛丑条)、明命4年(1823)5月にも修理が実施されている(『大南寔録正編』第2紀、巻之21、聖祖仁皇帝寔録、明命4年5月条)。

フエの太廟は歴代阮主を祀っており、歴代皇帝を祀る世廟とは中央軸に対して東西対象に位置する。成泰年間(1889~1907)に修復が行なわれたが(『大南一統志』巻之1、京師、城池、太廟)、1947年にフランス軍との交戦によって破壊された。現在太廟は復元されているが、瓦屋根はトタン屋根になるなど、状態はよくない。嘉隆帝が最も重視した太廟は、現在では荒廃を極めている。ただし付属施設の隆徳殿は明命13年(1832)建立当初の姿をとどめる。

太廟は中国では皇帝の祖廟で、祖先を祭祀する場所である。各皇帝には皇后が配祀されるのが原則であった。阮朝が成立する以前、フエの地は広南阮氏が主(チェア)として君臨して、北の鄭氏政権と対峙し、フエ以南の地を支配してヴェトナムを二分していた。広南阮氏は9代にわたって続いたが、やがて広南阮氏の圧政に堪えかねて西山阮氏が反乱を起こした。広南阮氏はフエを脱出して海路に向かったが、嘉定(ホーチミン)を逃れたところを捕捉され、ほぼ皆殺しにされた。この皆殺しを免れて西山朝と対決したのが一族の阮福映であり、のちの嘉隆帝である。実際、太廟は広南阮氏の主の廟所の故地に建立されたものであった(『大南寔録正編』第1紀、巻之18、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年8月己亥朔条)。さらに嘉隆帝はヴェトナムを統一した同年11月、一族の仇である西山党最後の当主阮光纉(1783~1802)およびその弟の阮光維・阮光紹・阮光盤を太廟に捧げて復讐を成し遂げたことを報告すると、そのまま城外に引きずり出し、凌遅刑(生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、苦痛を与えた上で死に至らす刑)に処し、最後は五体を五匹の象で引っ張って八つ裂きとした(『大南寔録正編』第1紀、巻之19、世祖高皇帝寔録、嘉隆元年11月癸酉条)。阮朝の西山朝への復讐は凄まじく、これより以前の辛酉年(1801)にはやはり西山朝の阮文恵(1753~92)の墓を暴いて頚を晒しており、その子どもや一族郎党と西山朝軍の将校あわせて31人を凌遅刑としている(『大南寔録正編』第1紀、巻之15、世祖高皇帝寔録、辛酉22年11月丙戌条)。明命12年(1831)に西山朝の阮文岳(?~1792)の子の阮文徳・阮文良、孫の阮文兜(文徳の子)が発見・捕縛されると、腰斬の刑に処し、西山党の血統を根絶やしにした(『大南正編列伝』初集、巻之31、偽西列伝、阮光纉伝)。

嘉隆帝はフエを占領し、皇城の建造を開始すると、まず太廟の建設に着手した。嘉隆帝は広南阮氏の武王(位1738~65)の孫にあたり、広南阮氏の正統を継いだことを明らかにする必要があり、そのため真っ先に歴代の主を祀る太廟を建設したのであった。

皇城図・『大南一統志』巻1より太廟部分(松本信広編纂『大南一統志 第1輯』〈印度支那研究会、1941年3月〉46-47頁より転載。同書はパブリック・ドメインとなっている)

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