日本におけるシルクロード文化

2016-01-29

「一帯一路」(「シルクロード経済ベルト」と「21世紀海のシルクロード」)戦略構想の推進に従って、「シルクロード」が世界各国から注目されている。

シルクロードと日本

古来、日本人はシルクロードに憧れてきた。特に唐代になると、日本は中国モデルを全面的にくみ取り、シルクロードの文化と物は日本が参考にする見本になった。学びが実を結んだ主な背景としてまず挙げられるのは、日本の有利な地理的条件である。他の国に比べて、日本は古来より優れた航海能力を持っていた。それは海洋へ出て近隣国を参考にして自身を発展させるための前提条件になった。もう1つは東洋・西洋文化の枢軸であった長安の繁栄が、日本が夢を紡ぐための素材を提供し、大きな精神的原動力になったことだ。中国の文化を学ぶために留学生を派遣した遣隋使・遣唐使戦略は、その当時の日本における時代の精神が反映されたものである。

遣隋使の派遣は607年から始まり、唐代になってからは遣唐使として続けられ、894年に終わるまで相前後して20数回行われた。その過程で、少なくとも1000名余りの派遣留学生が海で遭難して命を落とした。これほど危険な航海であったにもかかわらず、日本の青年たちはそれでも我先にと争って中日間に広がる1000キロもの海路へと船出していった。帰国した後、彼らは命をかけて学び取った唐の知恵と文化財を朝廷と天皇に献上した。756年、聖武天皇が崩御すると、光明皇后は先帝が大事に保管していたシルクロードと唐からの宝物600数点を東大寺に奉献し、それらは東大寺正倉院宝庫に収蔵された。それ以降、歴代の天皇はこの遺風を受け継ぎ、宝物を収集・秘蔵し、宝庫の鍵を独自で管理し、特定の日に単独で倉庫に入って点検し、皇后や身辺に仕える侍従ですら一緒に入ることはできなかった。

収蔵されている宝物のうち、9000点が毎年1回一般展示されており、例年見学者数は延べ20万人を数える。つまり、市民は身近に宝物と接することができ、またさまざまなメディアや教科書でも宝物のありのままの姿が紹介されている。なかでも、シルクロード渡来の精巧で美しい螺鈿紫檀五弦琵琶はよく知られている逸品である。このように、日本人は古代から伝わってきた発展モデルを代々受け継ぎ、その枠組みの中に、漢字によって表記される中国的教養を絶えず取り入れ、またそれを踏まえて現地の文化と融合し、その時々の時流に合わせて「メイド・イン・チャイナ」に対する革新も次々に生み出してきた。そこには、無形のものや、遥か遠いシルクロードへのロマンチックな想像も含まれている。例えば、日本にはこのような心理状態を反映した「九十九里浜」という地名がある。また、敗戦後、一世を風靡した流行歌『月の砂漠』や名作『敦煌』を改編した人気映画などもある。シルクロードは一貫して日本人が心に抱き続けてきた憧れなのである。

その根源について見てみると、日本文化はそれが生まれた段階からロマンと美しきものへの憧れという特色を持ち続けてきたという点が挙げられる。更に重要なのは、古来、日本の主流社会は中国の伝統的文化を尊重かつ高く評価しており、各分野におけるエリートの価値観もほとんどが古典の教えに基づいているという点だ。それを中心にした文化的枠組みは東洋と西洋の文化の衝突という大きな衝撃を何度も受けたが、今に至っても揺らぐことなく日本の上部構造を支えている。この枠組みの内容が時代の変遷に伴って変化してきたことは否定できないが、今の民主主義社会と国民意識にも依然として大きな影響を与えている。これも日本国民全体が伝統を正視し守るに足る力を持っていることの思想的根源である。

シルクロードと日本の皇室

できるだけ客観的に述べるために、2014年2月19日~4月5日にかけてパリの日本文化会館で行われた展覧会「蚕-皇室のご養蚕と古代裂,日仏絹の交流」記念文集の内容を極力引用して紹介する。この展覧会は日本の宮内庁と文化庁、国際交流基金が主催したもので、主に宮内庁と宮内庁所属機関の三の丸尚蔵館、正倉院が記念文集の解説執筆に当たった。

記念文集を開くとすぐに、「養蚕の起源は中国」との指摘がある。

日本で最初の人文科学の教科書、すなわち中国から伝わった四書五経などの古典には、黄帝妃によって始められた養蚕が民間に広く伝わった、と記されている。明らかに、この上古の美談はシルクロードの原始要素が下敷きになっており、それとリンクしている。日本最古の史書『日本書紀』にも養蚕についての記載がある。それによると、日本の天皇が皇后に桑を摘ませ、養蚕をするよう勧めたという。したがって、皇后による養蚕祭祀の儀式は8世紀初頭の御所で始まったことになる。

民間の養蚕と染織技術は3世紀まで遡る。大陸から日本に渡った技術工の指導の下で、日本の養蚕絹織物業は長い年月を経るうちに盛んに発展していった。1859年に横浜が開港した時、生糸は日本の輸出品として主要な位置を占めていた。明らかに、歴代皇后が受け継いできた養蚕は、伝統文化の継承だけでなく、日本の経済収益にも貢献したのである。中でも、今上天皇の皇后である美智子皇后の貢献は特に顕著だ。美智子皇后は絶滅の危機に瀕している日本の野生品種「小石丸」を飼育し、皇室養蚕所でつむいだ生糸を正倉院に提供した。この生糸は代々伝わる宝物の復元と修理に用いられた。当然、宝物の一部はシルクロードと中国から伝わったものだ。また、宮中祭祀で使用される装束や外国元首への贈り物にも皇后が飼育した蚕からつむいだ生糸で織られ、縫製されている。

皇室と養蚕のこのような伝承関係に鑑み、皇后は蚕についての和歌を数多く詠んでいる。どの歌も皇后の心情と志が託されており、養蚕の歴史に触れ、伝統を受け継ぎ未来の発展の道を開こうという心情を歌い上げている。わずかではあるが、ここに四首紹介しよう。

真夜こめて秋蚕は繭をつくるらしただかすかなる音のきこゆる

音ややにかすかになりて繭の中のしじまは深く闇にまさらむ

籠る蚕のなほも光に焦がるるごと終の糸かけぬたたずまひあり

くろく熟れし桑の実われのてに置きて疎開の日日を君は語らす

「シルクロード」の経験は私たちに次のような示唆を与えてくれる。激しく移り変わる世の中で、砂金を振るうがごとく幾たびも選り分けられてなお時空を貫いて伝えられるのは、開放的で、互恵的で、寛容かつ進取の気概に満ちた文化だけなのである。

(王敏・法政大学国際日本学研究所教授 )

「北京週報日本語版」

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