屈原とその詩

2016-02-03

屈原は数千年来中国でもっとも人々に喜ばれる詩人である。屈原の生きた戦国時代(紀元前475年-紀元前221年)は、諸侯が林立し、互いの抗争が絶えない時代であった。秦と楚は当時最も力の強い国で、その他10数の小国がその周囲に位置していた。

屈原は楚の貴族で、政府の高官であった。知識が豊富で、外交の面で手腕があり、若いころから楚の国王から信頼が厚かった。その時代には、各国の国王や権威ある人は才能ある人を自らの門下に招くことに熱心であった。多くの有力な学識家は自分の政治的理想を実現するため、様々な国へ赴き、遊説していた。しかし、屈原は違った。祖国を愛し、自らの才能で、開明した政治を行い、国力を強固なものにするため楚の国王に仕えようとしていた。こうした理想を持つ屈原は死ぬまで祖国を離れようとしなかった。残念なことに、内政や外交の上で屈原は楚の腐敗した貴族グループとの間で矛盾が生じたため、国王から次第に疎外された。その後、楚の大国としての地位も次第に揺るぎ、国力も弱まってきた。秦の国の軍隊は紀元前278年、楚の都・郢を破った。国が滅亡したことや家族がなくなったことで、屈原は悲嘆に暮れ、川に実を投げて自殺した。

屈原は後代に偉大に遺産を残した。独立した創作をする初めての詩人として、その代表作の「離騒」は中国古代文学史上でもっとも長いロマン溢れる政治的抒情詩である。その中で、多くの歴史的な物語を引用して、楚の国王が伝説の中の明君のように、内務では賢明で、公正、かつ徳政を行い、対外的には他国と手を結んで秦に抵抗することを望む気持ちを表現した。この詩は中国初の詩歌集「詩経」の表現形式を破り、詩歌の表現力を豊かにし、中国古代の詩の創作に新しいルートを切り開いた。後代からは「詩経」とともに「風騒」と呼ばれる。風と騒は中国の詩歌創作の現実主義とローマン主義の伝統の源だとされる。

代表作「離騒」のほか、屈原の「天問」も珍しい独特な詩である。天に続けて172の質問をし、その内容は天文、地理、文学、哲学など多くの分野に及ぶ。伝統的な観念への疑問と真理を求める科学的な精神を表す。このほか、「九歌」は民間の祭る歌を元の加工した歌で、多くの神を描写し、人間と神の恋歌である。

屈原の作品は奇想天外な発想が多く、花や草、樹木はすべて人格化され、女神が多く書かれている。屈原の歌を詠んで、言葉の美しさや、喩えの奇抜だけでなく、高尚な品性と愛国の気持ちが伝わってくる。

[show china]より

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