北京には、全長6000kmにも及ぶ人類史上最大の建造物「万里の長城」や世界最大の宮殿「故宮博物館」、中国最大の祭祀建造物「天壇公園」など、スケールの大きな6つの世界遺産がある。中でも、杭州・西湖の風景をもとに造られた皇室の庭園「頤和園」は、中国文化の粋を感じられる優美な庭園として地元の人々から愛されている。
清の6代皇帝・乾隆帝が母の還暦を祝って1750年に造園を着手、1764年に完成したという頤和園は、東京ドーム62個分、皇居の2倍以上にあたる約290万㎡の広さを誇る。そのうちの4分の3は人工湖で、隅々まで回ろうとすると1日がかりとなる。
この頤和園を「北京のお気に入り」として推薦してくれたのは、建築家の梶ヶ谷友希さん(35)だ。
――初めて訪れたのは北京に移り住んで3カ月目の11月でした。その日は、天気が良く、空気も澄んで、景色も全部見渡せて、氷が張った湖では鴨たちが遊んでいました。その光景を見て、なんだかすごく癒されて、季節が変わるごとに来てみたいなと思いました。
実は、北京に来てからそれまで、北京の観光地にも、中心地にも行ったことがなかったんです。当時住んでいたのは東3環路から4環路の間だったのですが、私にはどこか殺風景というか、スケールが大きすぎて歩いていても面白く感じられませんでした。つい、それまで住んでいたオーストラリアのほうが良かったななんて思ったりして。そんな時に頤和園を訪れて、北京にもこんなに文化と歴史を感じられる美しい場所があるんだ、これなら好きになれるかもしれないと思ったのを覚えています。
頤和園は、自然が豊かで、広大な敷地の中にも起伏があり、静かなところも、賑やかなところもある。下から高台に上がって行くと寺院があって、そこから下を眺めると大きな湖の風景が見える。下を降りていくと回廊があって、そこでゲームをしている人がいたり、色んな庶民の光景が見れるんです。その景色の変化がすごくドラマチックだなと思いました。
普段はどちらかというと人からつっつかれてもなかなか動かないタイプだという梶ヶ谷さん。しかし一旦心に火がつくと周囲の人々を驚かせるほどの行動力を見せる。建築家としてのキャリアの始まりもまさにそうだ。
――当時は、なんで絶対に就職しなければならないのか、と思ってました。就職は結婚と同じだと考えていたんです。結婚って、結婚したい相手が現れたらするものですよね。就職も、しなければならないからではなくて、就職したいと思えるところがあればしようと思っていました。大学院を卒業後も長く欧州旅行に行ったりして、しばらくの間ふらふらしてました。
旅行から戻ってきて、これはさすがにやばいなと思って就職先を探したんですけど、1日行って合わないとか、1カ月行って合わないとか、色々試行錯誤してました。でも、あせる必要はない。まずは興味のあることを探ろうと思い、ネットサーフィンをしている時に、たまたま東京R不動産とRプロジェクトのことを知りました。新しいことを模索していて面白いなと思って調べてみたら、そこからOpen A という設計事務所に行き着きました。その事務所の代表の講演会を聞きに行った翌日には、事務所宛に何でもいいから働かせてくださいとメールしていました。
こうしてスタッフが2人しかいない事務所にアルバイトとして入社。後に正式なスタッフとなって大型リノベーションなどの法人関係や個人住宅などの設計を担当した。約5年近く働いた頃、ステップアップのために会社を辞めることに。海外へ行くか、それとも日本で独立するか、心には2つの選択肢があった。
――海外だったら別の仕事も含めてもう少し幅が広がるのではないかと考えた
んです。当時ぎりぎり30歳だったので、ワーキングホリデイを使って海外に行くことを思いつきました。
ヨーロッパかそれともオーストラリアかと考えている時に、日本の有名デザイナーがオーストラリアの建築家に依頼した別荘プロジェクトに携わった日本人建築家のことを知りました。その方のパーティでこのプロジェクトの作品を見る機会があったのですが、それがすごくかっこよかったんです。日本で使っている材料や素材とも全然違っていて、とてもエコ的な発想に基づいた斬新なものでした。
こんな建築どうやって作るんだろう、どこからこんな発想が浮かんでくるんだろうとすごい興味を引かれました。
再び心に火がついた梶ヶ谷さんはその建築家が来日した際に開いた講演会にポートフォリオやレジュメを持って行き、直接自分を売り込んだ。その時は返事をもらえなかったが、ワーキングホリデイを利用してオーストラリアに到着した後も、建築家と連絡を取り合い一緒に働きたい旨を伝えた。
その熱い思いが伝わり、ついに梶ヶ谷さんはオーストラリアを拠点に活動する世界的な建築家ピーター・スタッチベリー氏の設計事務所で働くことになった。
しかし、そこでは思わぬ挫折が待っていた。
――人生で初めて辛いと思いました。言葉の壁ってこんなに大きいんだと。私以外の外国人はヨーロッパ圏の人ばかりで、しかもオーストラリア人の英語は速いんです。会議でも自分がまだ考えているうちに、皆は次の話題に移っている。下手に経験がある分だけプライドが邪魔をして、本当はできるのに、言葉がわからないからできないだけだと言い訳を考えたり。そんなプライドはさっさと捨ててしまえば良かったんですけど。
それでも1年後には、単語を知らなくても、言い回しを考えたり、絵に描いたり、伝えるためにどうすればいいのかを考えながら仕事をするようになり、心も落ち着いた。
――スタッチベリー氏の事務所は別荘など個人住宅の案件が多かったですね。
個人の住宅と言っても、クライアントは富裕層だったので、建物だけで最低でも3億円以上と規模が大きいものでした。
スタッチベリー氏の建築は考えられていない箇所がないというぐらい細部にまでこだわっていて、ディテイルを考えることの重要性や考え尽くすための時間が必要なことを学びました。また、ランドスケープや環境を考慮して設計するなど、日本にいる時とは違う観点から設計を見る事が出来たのも良い経験となりました。
また、オーストラリアは市場が小さい分、商品の種類が限られているので、時にはドアの取っ手や照明なども手作りをする必要がありましたが、逆にそれが創作空間を広げることになって面白かったです。
周囲の状況が見え始め、仕事のスタンスもわかってきた2年が過ぎた頃、梶ヶ谷さんにある転機が訪れる。
――オーストラリアではプロジェクトの進むスピードがすごく遅くて、私がいた2年半の間に結局自分が携わったプロジェクトは1つも完成しませんでした。このスピードのままプロジェクトに関わっていくことが、私の年齢とキャリアにとってプラスなのだろうかと考えていた時に、以前の事務所の代表が北京で事務所を開くから来ないかという話を持ちかけてくれました。
直接日本に帰るよりも、北京という都市を見るのも面白いかもしれない。そう決意した梶ヶ谷さんは、新たな挑戦への期待を胸に、2012年8月北京にやって来た。
しかし、そこでは予期せぬ出来事が待っていた。
――最大の出資者であった中国人は、建築家ではなくて、グラフィックデザイナーでした。設計にはあまり詳しくなく、自分が想像していたものと違っていたのか、1カ月後には「俺は下りる」と言って、辞めてしまいました。
1人取り残された梶ヶ谷さんは中国語も話せず、ただ北京の事務所にいるだけの時間が続いた。1年後、残った二人のパートナーからこれ以上お金は支払えないと言われ、日本に戻るか、北京に留まるかの選択を迫られた。
――その段階で、中国で成し遂げたことや自信をもってやったと言えるプロジェクトがなかったので、何かやってから帰りたいと思いました。正直、それまでの一年間はただ遊んでいるようなものだったのですが、とにかく北京にいることが私の仕事なんだと思って、色んな人と知り合い、一緒に飲んだりして交流を続けていました。いざフリーになってみると、そういった飲み仲間やその繋がりで出会った人たちから徐々に仕事が持ち込まれるようになったんです。
こうした流れで、梶ヶ谷さんは北朝鮮との国境沿いにある遼寧省の街・丹東の幼稚園のリノベーション設計を請け負うことになる。
――この案件は、11年間地元で幼稚園を個人で経営してきた36歳の女性が丹東にはない新しいコンセプトの国際的な幼稚園を作りたいと依頼してきたものでした。床面積5000平方メートルの3階建て、1クラス20人・20クラスの計400人が収容できる大規模な建物です。
建物は北朝鮮との国境の川沿いにあり、目の前に川が流れていました。建物も横に長かったので、その流れを取り入れて、子供たちが遊ぶための「遊路」と呼ぶ廊下と管理の動線を作りました。教室が建物の真ん中に置かれているような形で、教室の周りを子供たちが一周できるようにしたんです。
また、柱が林立している建物だったので、壁はフレキシブルにして、2つの教室を1つにして利用したりと、使い方に幅ができるようにしました。
このほか、丹東の冬の寒さは非常に厳しいので、子供たちが園内で自由な発想で遊べるように遊路に様々な仕掛けを作りました。子供たちが自ら遊び場を作る路地裏のようなスペースを作りたかったんです。例えば、壁にトンネルや穴をあけてそこに入って遊べるようにしたり、クライミングができるようにしたり。あと、天井を一部吹き抜けにしたところにネットの網を通して、上と下が繋がるようにしました。
Flow・Flexible・Freeという3Fをキーワードにしたコンセプトにクライアントは大満足し、プロジェクトは順調に進んだ。しかし、梶ヶ谷さんが驚いたのはその後の工事のスピードだった。それはオーストラリアとはあまりにも対照的だった。
――4月中旬に仕事がスタートしたのですが、クライアントは9月には幼稚園をオープンさせたいと言ってました。私の仕事の契約は基本設計図面という、100分の1程度の図面を提出するものなのですが、日本では、基本設計を終えた後、実施設計に入って、そこで図面が出来上がって、ようやく建物を建て始めます。しかし、この案件では平面図を書いた時点で壁をもう建て始め、立面図が出来上がった頃には壁の下枠はもう出来上がっているという、これまでの常識ではありえないスピードで工事が進んでいきました。現在、内装工事はすでにほぼ終わっていて、幼稚園も8月20日に開園する予定です。
さらに梶ヶ谷さんを驚かせたことがあった。
――1番驚いたのは、クライアントが自分の知り合いの紹介だからというだけで、私の作品も見ないうちに、契約を交わしたことです。中国の信頼社会というのは、すごいものだなと思いました。もしかしたら、中国では日本人建築家は信頼されていて、クオリティが高いものを作るというイメージがあったからかもしれないですが。
日本やオーストラリアと比べると、中国での仕事は良くも悪くも刺激的だという。
――中国では仕事の話はいっぱいあっても、なかなか話がまとまらなかったり、お金にならなかったりします。それでも、北京では規模の大きな仕事や様々な種類の仕事を頼まれることがあるので刺激的です。現在床面積8000平方メートルのホテルをオフィスにリノベーションするという案件を手掛けていますが、やはり日本ではなかなかこういった仕事は受けられないと思います。
将来の夢について梶ヶ谷さんは次のように語った。
――大学時代の同級生のうち現在建築設計の仕事をしている人はわずか5%程しかいないんです。学生時代、不真面目で、友人からも「将来何したいの?」と言われていた私が、今でも建築の設計を続けていることが不思議に思えることもあります。単に楽しそう、面白そうと思える方向に進んでいったら、今ここにいるというだけなのですが。でもせっかくここまで続けてきたので、今後も建築の仕事を続けていきたいです。
建築家としては、クライアントが考えているものを一から形にしていって、満足してもらえることが私の喜びです。有名になりたくないと言えば嘘ですが、地位や名誉よりも、小規模な設計事務所を立ち上げて、求められれば海外に行き、今後も誰かが満足するものを作っていけたらいいですね。
梶ヶ谷さんの心にはクールな表情からは想像できない火山のマグマのような情熱が隠されている。おそらく、その内なる情熱ゆえにドラマチックな頤和園に心引かれたのかもしれない。梶ヶ谷さんが手がけた幼稚園の遊路で、上へ下へと登ったり降りたり、トンネルや穴に潜ったり隠れたりして遊ぶ子供たちの笑顔を想像するだけでワクワクしてくる。この建築もまたきっとドラマチックなものに違いない。
<頤和園のデータ>
所在地:北京市海淀区新建宮門路19号门路 TEL:(010)62881144
交通:【北宮門】 北京市地下鉄4号線北宮門駅下車徒歩約5分
【東宮門】 北京市地下鉄4号線西苑駅下車徒歩約20分もしくはバス
【正門】正門は東宮門となり、東宮門から入り北宮門から出るのが正規のルートだが、駅から近い北宮門から入って出る人が多い
開園時間:4/1~10/31まで06:30-18:00 11/1~3/31まで 07:00-17:00
入場料:30元 共通券 60元(徳和園、仏香閣、文昌院、蘇州街の入場料を含む)
<アマンサマーパレス北京(北京頤和安縵酒店)のデータ>
所在地:中国北京海淀区頤和園宮門前街1号
TEL:(010)59879999
最高級ラグジュアリーリゾートを展開するアマンが手掛けた初の都市型ホテル。ホテル内の中国式伝統建築は、清の時代、夏の避暑地として頤和園に滞在した西太后への接見を待つ人々の控えの間として使用されていた。
頤和園観光で疲れたら、東門に隣接するアマンサマーパレス北京ホテルで休憩するのがお勧め。カフェバーのアフタヌーンティーセットは1人238元、レギュラーコーヒー58元と値段はさすがにお高めだが、贅沢で静かな空間で心身ともに癒されることは間違いない。
<推薦者のデータ>
梶ヶ谷友希さん
出身地 神奈川県
中国滞在歴 2年
●中国の食べ物で一番好きなもの
過橋米線 肥腸入り、週に一度は食べてます
●中国を漢字一文字で表すと?
吵
●こちらに来て感じた中国人と日本人の違い
中国人は他人に構わず自分の好きな事をする フレンドリー、でもせっかち
日本人は協調性があるがとてもシャイ
●中国にあって日本にないもの
気軽なオートクチュール
●中国人に見習うべきところ
ピュアさ
●中国で暮らす中でこれまでの印象と変わったところ
中国人に対する印象、人が良い人が多い
(執筆 MZ)
「中国国際放送局」より