円明園にある「天地一家春」という御殿

2017-10-26

頤和園の西太后の住まいだった楽寿堂の前の二つの銅のかめです。このかめには、「天地一家春」という五文字と「光緒年制」という四文字が刻まれています。天地一家春というのは円明園にある御殿で、おそらく西太后が彫らせたであろうこの文字には、円明園の天地一家春に寄せる西太后の心が込められているというのです。

西太后は17歳で咸豊帝(1831~1861年)の後宮に入り、22歳のときに同治帝(1856~1875年)を産みました。その翌年、つまり咸豊8年に貴妃に封じられ、円明園のなかの天地一家春という御殿を住まいとして下賜されて、ここで親子水入らずの生活を送ります。この数年が西太后にとっていちばん幸せな日々だったようです。

この円明園の天地一家春も、1860年の英仏連合軍の北京侵入で破壊されてしまいます。同治12年(1873年)、同治帝は親政を敷くとすぐに、懐かしい円明園の天地一家春に帰りたいという母親の西太后の意を汲んで、円明園再建の詔書をだしますが、大臣たちは財政困難を理由に強く反対し、実現しませんでした。

そこでやむなく頤和園の楽寿堂に住むことになるのですが、どうしても幸せな日々を送った円明園の天地一家春が忘れられず、楽寿堂の前に「天地一家春」と彫ったかめを置いて、過ぎし日を偲んだというのです。

ちなみに、円明園の面積は、頤和園よりさらに53ヘクタールもひろく、346ヘクタールあります。1860年の英仏連合軍の北京侵入の際にすっかり破壊されてしまい、いまも残っているのはベルサイユ宮殿をコピーしたという海晏堂の大きな柱などの残骸で、文字通り円明園遺跡公園です。

「中国網」より

中国網

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