広大な故宮、その中にも位置によって、それぞれの建物では役割と重要性が異なります。それでは、故宮の内廷の後ろに位置する二つの宮殿について、その歴史とこれまでの歩みを見てみましょう。
坤寧宮
坤寧宮は故宮の内廷の後ろに位置する宮殿の一つであり、1420年に建てられ、明清の時代に数回にも再建されました。「坤寧」は坤地が安寧するという意味が込められています。宮殿の広さは9間、長さは3間に相当します。瓦は黄色い瑠璃、屋根は二重の寄棟作りです。
坤寧宮は明清両時代の皇后の寝殿として使用されていました。最初に坤寧宮に住んだのは朱棣の皇后でした。その後、明のすべての皇后は坤寧宮を寝殿として、李自成氏が北京に侵入した際、明時代の最後の皇后はここで自殺したそうです。
清時代、坤寧宮は依然として「正宮」と呼ばれますが、皇后は普段、坤寧宮に住んでいませんでした。ただ、結婚式の部屋として使われます。幼い時に即位した康熙、同治、光緒といった三人の皇帝や、遜帝溥儀が結婚した際に、坤寧宮にて二日程過ごした後に、乾清宮あるいは養心殿に移したのだと言われています。
坤寧宮のもうひとつの役割は、シャーマン教が神様を祭る場所として利用されていました。宮殿の中は満州族の風習に基づいて「袋形の部屋、コの字型オンドル、煙突が地面に立っている」という形に建てられました。ここでは毎日、毛色が真っ黒な二頭の豚を絞め殺して神に供え物として供えていました。また、王族、大臣や護衛官たちもその肉の一部を食べます。肉には塩がないから、味はあまり美味しくないが、坤寧宮で肉を食べるという行為は人々にとって、自身の墓碑に刻みたい程光栄なことであったとされています。
交泰殿
交泰殿は内廷の後ろに位置する宮殿の一つです。乾清宮と坤寧宮の間にあります。明の嘉靖時代に建てられ、1797年に乾清宮にて火災が起きた為、損害を受けました。その年に再建されました。「交泰」は「易経」の「天地交泰」から来ており、乾坤、陰陽、上下が交じる中で、万物が生きているということを意味しています。
交泰殿は中和殿と似ているが、体積は後ろの三宮殿の中で一番小さい殿です。紫禁城の太和門から乾清宮まで、全ての場所において龍の装飾が見られ、交泰殿からは龍と鳳凰の模様が現れます。宮殿の中には、清の康熙皇帝が書いた「無為」の額がかかっています。東西の両側には巨大な銅漏刻と時計があり、紫禁城内ではこの時計の時刻を基準としています。
交泰殿は明と清の両時代の皇后が重大な祭りで祝賀の拝謁を受ける場所でした。春の季節になると、「親蚕礼」という儀式の前日に、皇后は交泰殿で儀式で使用する道具などをチェックします。
清乾隆以後は、皇帝の権力を象徴する二十五の印章は交泰殿にて保存されています。お正月には、吉の日を選んで開宝の儀式を行い、新しい一年の政務が始まることを示します。年末には封宝の儀式が行われるということです。
明時代に、宦官が専権していました。清の順治皇帝は前朝を教訓を汲み取り、宦官が政務に関与することを禁じました。「宦官は政務に関与してはならない」という鉄の看板を交泰殿で立たせたこともあったということです。