故宮の内廷の西側にある宮殿

2020-06-26

故宮の内廷の西側にある宮殿にもさまざまな物語があります。その中から、翊坤宮と太極殿をピックアップして、そこの歴史秘話と建物について学びましょう。

翊坤宮

「翊坤宮」は1420年に建てられ、最初に「万安宮」と呼ばれていたが、1535年に「翊坤宮」という呼び名に変わりました。清の時代の末期に翊坤宮と儲秀宮を繋げて、宮殿全体が「四進院」という構造になりました。

翊坤宮の装飾には「平安」と「吉祥」という意味が込められています。例えば、門と窓の装飾には万字型の丸い模様と五つのコウモリが「寿」の文字を囲む模様などがあります。西太後慈禧が書かれた「有容徳大」という文字の額が掛かられています。両側の花梨木で作られた「落地罩」(仕切りの一種)には梅や鵲、藤や松の模様が彫られています。宮殿の前にある基台の下には、銅鳳凰、銅鶴、銅炉がそれぞれ二つ並べられています。

正殿の廊下には今でもブランコが置かれているが、このブランコは遜帝溥儀の時代に置かれたものです。明清時代に翊坤宮は妃の住まいとして使用されていました。その中でも、一番有名なのは万暦時代の鄭貴妃です。鄭貴妃は万暦時代に一番寵愛された妃で、彼女が生んだ三番目の皇子も皇帝に一番可愛がられていました。その後、万暦時代に皇帝と大臣の間の二十年にもわたる皇太子争奪戦が展開した。最後は大臣たちが勝ったという結果となリました。

太極殿

「太極殿」は内廷の西側にある六宮殿の一つで、1420年に建てられました。最初は未央宮と呼ばれていたが、嘉靖皇帝の父親である献王朱祐杬がここで生まれたことで、その名前が1535年に「啓祥宮」にが変わり、また清朝末期に現在の呼び名である「太極殿」に変わりました。太極殿は清時代に数回にも修築されました。

太極殿は二進院構造の宮殿であったが、清朝後期に長春宮を修築した際に太極殿の一番後ろにある宮殿を「穿堂殿」に修築し、母屋の後ろの小さな建物と繋ぎ、また長春宮及びその東西側に位置する宮殿と繋ぐことで、回廊を形成しました。それで、太極殿と長春宮はお互いに繋がり、四進院構造の宮殿になりました。

太極殿の広さは五間で、屋根は黄色い瑠璃の瓦で作られています。前後ともに廊下が付けられています。軒には蘇州の絵が描かれており、門と窓には丸い「寿」という文字の模様が飾られ、「歩歩錦」という古代の門や窓の建築手法で作られた窓もつけられています。中には石膏で作られた五匹の蝠が「寿」を抱く模様の彫刻があり、清時代末期に作られたものです。外の空間と東西の部屋にはそれぞれ花梨木で彫った錦地花の欄干と錦地の鳳凰と鳥模様が描かれた敷居で隔てられ、真ん中には宝座が置かれています。宮殿の前には縁起が良い高い瑠璃の門があり、東西の部屋と一緒に広い庭を形成しています。

後ろの宮殿は体元殿と呼ばれ、屋根が黄色い瑠璃の瓦で作られており、五間の広さで、前後ともに門が付いています。後ろには「抱厦」という小さな部屋が付いているが、ここは長春宮の劇場として活用されていました。1884年に、西太後慈禧の五十歳誕生日のために、ここで半月間に劇が演出されていたということです。明の万暦時代に、乾清と坤寧の二つの宮殿が火事で損害されたため、神宗朱翊鈞は啓祥宮でしばらく住んでいたことがあります。遜帝溥儀が宮殿を出る前に、同治皇帝の瑜太妃が太極殿に一時期住んでいたこともあるといわれています。現在に至ってもその陳列は当時の宮廷生活原貌のままです。

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