おすすめの北京定番観光スポット―什刹海

2020-05-29

什刹海,是北京市历史文化旅游风景区、北京市历史文化保护区。位于市中心城区西城区,毗邻北京城中轴线。水域面积33.6万平方米,与中南海水域一脉相连,是北京内城唯一一处具有开阔水面的开放型景区,也是北京城内面积最大、风貌保存最完整的一片历史街区,在北京城规划建设史上占有独特的地位。

什刹海は北京市における歴史文化観光地、北京市歴史文化保護区画です。都心部にある西城区に位置し、北京の中軸線に隣接しています。区域内において水域面積が33.6万m2で、中南海水域と繋がって一体になり、北京市内における唯一の広い水面がある開放式観光スポットである上に、北京城内における一番面積の大きい、風貌が完全に保存されてきた歴史的な街であり、北京城の建設と計画史において独特な地位を占めています。

什刹海包括前海、后海和西海(又称积水潭)三个水域及临近地区,与“前三海”相呼应,俗称“后三海”。什刹海也写作“十刹海”,四周原有十座佛寺,故有此称。清代起就成为游乐消夏之所,为燕京胜景之一。什刹海景区的不少古建筑在北京城市建设发展史上及政治文化史上占有重要地位,主要代表有恭王府及花园、宋庆龄故居及醇王府、郭沫若纪念馆、钟鼓楼、德胜门箭楼、广化寺、汇通祠、会贤堂。

什刹海について前海、後海、西海(別名は積水潭)という三つの水域および近隣の地域からなり、「前三海」に呼応して俗に「後三海」と呼ばれます。什刹海は「十刹海」とも書かれ、周りでは十箇所の仏寺が林立するのでこのように称されたのです。早くも清の時代からここは遊楽と消夏の聖地になり、燕京十景の一つと選ばれました。什刹海観光地の区域内にある多くの建物は北京の都市建設と発展史および政治文化史において重要な地位を占め、中に代表的なのは恭王府と花園、宋慶齢旧居と醇王府、郭沫若記念館、鐘鼓楼、徳勝門やぐら、広化寺、匯通祠、会賢堂などが挙げられます。

著名的《帝京景物略》中则以“西湖春,秦淮夏,洞庭秋”来赞美什刹海的神韵。什刹海景区风光秀丽,被誉为“北方的水乡”。随着游客的增多,这里逐渐出现了一些古文化商店、小吃街和酒吧等,因此,也成为了京城文化街之一。

よく知られた『帝京景物略』の中に「西湖春、秦淮夏、洞庭秋」という言葉で什刹海の趣を称えています。什刹海観光地は景色が美しくて「北方の水郷」と高く評価されています。観光客の人数の増加につれて、ここではいくつかの古文化商店、グルメストリートとバーなどが次第に現れたので、北京城の文化街の一つともなりました。

什刹海景区位于北京城区中轴线的西北部,东起地安门外大街北侧;南自地安门西大街向西至龙头井向西北接柳荫街、羊房胡同、新街口东街到新街口北大街,西自新街口北大街向北到新街口豁口;北自新街口豁口向东到德胜门,由德胜门沿鼓楼西大街到钟、鼓楼。

什刹海観光地は北京の都心部の中軸線の北西部に位置し、東のほうが地安門外大通りの北側を境にし、南のほうが地安門西大通りから西に行って龍頭井のところでまた北西に向いて順番に柳蔭通り、羊房胡同、新街口を経て新街口北大通りに到達し、西のほうが新街口北大通りから北に向いて新街口城壁穴まで、北のほうが新街口城壁穴から東に向いて徳勝門に行って、またそこから鼓楼西大通りに沿って鐘楼、鼓楼に着く一線を境界線とします。

什刹海景区历史文化积淀深厚,有文物保护单位40余处,占西城区的三分之一以上。历史上本地区曾建有王府、寺观、庵庙等多达30余座,现仍尚存十几处。什刹海34公顷的水面十分自然地融入城市街区之中,依托水体,还有湖岸的垂柳、水中的荷花等也成为什刹海颇具特色得自然景观。号称“燕京小八景”之一的“银锭观山”在景区中具有典型意义。什刹海景区具有大量典型的胡同和四合院,如金丝套地区的大、小金丝胡同,南、北官房胡同和后海北沿的鸦儿胡同以及白米斜街、烟袋斜街等。

什刹海観光地は歴史と文化に骨まで染みられた区域として、40箇所あまりの文物保護単位があり、この数が西城区の三分の一以上を占めます。過去においてここでは30箇所あまりの王府、寺院道観、と廟などが建てられたが、現在までなお十何箇所が現存されています。什刹海の34ヘクタールもの大きいな水面がかなり自然に都市や街に溶け込んで、水面と湖の岸に生える枝垂柳、水中の蓮華と組み合わせて著しい特徴のある什刹海の自然景色が形成されます。「燕京小八景」の一つとして知られている「銀錠観山」も当観光スポットの代表的な自然景色と言えます。什刹海観光スポットでは数多くの典型的な胡同と四合院があり、例えば金糸套地域にある大、小金糸胡同、南、北官房胡同、後海北岸一帯にある鴉児胡同と白米斜通り、煙袋斜通りなどが挙げられます。

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おすすめの観光スポット

恭王府

恭王府位于什刹海西北角,是一处典型的王府花园,既有中轴线,也有对称手法。 始建于十八世纪末,是北京保存最完整的清代王府,堪称“什刹海的明珠”。曾属乾隆后期大学士和珅的宅邸,后改赐为恭亲王奕忻的王府。府后有一独具特色的花园,名萃锦园,占地约三万平方米。花园东、南、西三面被马蹄形的土山环抱,园中景物别致精巧,是国家级重点文物保护单位。前部的府宅原为中国艺术研究院红楼梦研究所的工作场所,单位迁出后经重修现已对游客开放;恭王府的一部分现作为郭沫若故居也对游人开放。

恭王府は什刹海の北西角に位置する典型的な王府花園であり、建物が中軸線に沿って建てられて対称的に並んでいます。十八世紀末期に建造された恭王府は北京における保存度が一番高い清時代の王府で、「什刹海の真珠」と言われても過言ではないです。この邸宅はかつて乾隆後期の大学士である和珅の家宅であったが、のちに恭親王・奕訢に王府として賜われたのです。王府の裏のところでは敷地面積が約3万m2の特色ある花園があり、萃錦園と呼ばれます。花園の東、南、西の三面が馬蹄形の土山に囲まれて、園中の景物も巧みに配置され、国家級重点文物保護単位に選ばれています。前部の邸宅は元々中国芸術研究院紅楼夢研究所の事務場所であったがのちに研究所が移されて、整備を経て現在再び観光客に開放されています。さらに恭王府の一部が今郭沫若旧居として観光客に開放されています。

庆王府

慶王府

庆王府是北京现存王府中的一座。第一代庆王永璘为清乾隆皇帝第十七子,嘉庆皇帝的同母胞弟。老庆王府在前海西街路北,即和珅府的一部分。道光三十年庆王永璘的后人奕劻袭辅国将军。咸丰元年皇帝命奕劻由老王府迁至定阜大街原大学士琦善的宅第,按王府规制进行了大规模的改建,始称王府。这时的奕劻又在府内大兴土木,修建了万字楼和戏楼等处,府内建筑宏伟,面积广阔,分为五个大院,大小楼房近千间,朱红大门,高大的宫殿,只是屋顶为泥瓦而不是琉璃瓦,成为当时京城最华丽的王府之一。民国后为部队机关所征用。

慶王府は北京における現存する王府の一つです。初代目の慶王・永璘は清乾隆皇帝の第十七番の息子で、嘉慶皇帝の同母の弟でした。旧慶王府は前海西通りの北側に位置し、即ち和珅府の一部になります。道光三十年に慶王永璘の末裔である奕劻は補国将軍の職を受け継ぎました。咸豊元年に皇帝が奕劻に旧王府から定阜門大通りにある元大学士・琦善の邸宅に引越しするよう命じて、王府の仕様にそって大規模な改築が行われて、そのときから初めてここを王府と呼ばれるようになりました。そのうち奕劻はまた府内で大規模に土木工事を行い、万字楼と劇楼などの建物を立てました。王府の中は建物の規模が大きくて敷地面積も広くて、全体として五つの大院に分けられ、千室に近い楼と部屋があり、朱色の大門に高くて大きな宮殿が林立し、屋根が瑠璃瓦の代わりに泥瓦が使われたが、当時の京城において最も豪華な王府の一つとなりました。民国時代に部隊機関に徴用されたことがあります。

钟鼓楼

鐘鼓楼

钟鼓楼每到定更的时候是“先击鼓,后敲钟”;二更到五更的时候则“只撞钟不击鼓”;到了亮更时是“先击鼓后敲钟”。击鼓的方法是先快击18响,再慢击18响,共击6次,共108响。撞钟也是一样。

鐘鼓楼は定更(夜8時ぐらい)になると「太鼓を叩いてから鐘を打つ」、二更(夜9時から11時まで)から五更(朝3時から5時まで)にかけて「太鼓を叩かずに鐘を打つ」、亮更(5時すぎ)になるとまた「太鼓を叩いてから鐘を打つ」というやり方になります。太鼓を叩く方法としてまず速やかに18回叩いて、そしてゆっくりと18回叩いて、合わせて6組繰り返されて計108回になります。鐘を打つ方法も同じです。

关岳庙

関岳廟

关岳庙在西城区鼓楼西大街149号。这里原是道光帝的第七子醇贤亲王庙。醇贤亲王庙于光绪十七年修建,至光绪二十五年建成。庙坐北朝南,分三进院落,其中中院又有东西跨院。中轴线依次为琉璃照壁,中门,外为八字墙,两旁各有一座琉璃门;中院内东有焚帛炉,西有祭器亭;正殿7间,殿前有月台一座,东西配殿各5间;后寝祠5间。建筑面积约3000多平方米。民国3年北洋政府在后寝祠塑关羽、岳飞像,并祀关岳,称关岳庙。

関岳廟は西城区鼓楼西大通り149号に位置します。ここは元々道光皇帝の第七番の息子である醇賢親王の親王廟です。醇賢親王廟は光緒十七年に着工され、光緒二十五年に完工されました。廟は北を背にして南面し、三つの院子が一直線に並んで繋がっていて、とくに中院では東、西二つの跨院が追加されます。中軸線に沿っては順番に瑠璃目隠し塀、中門が見えて、外のほうが八文字の壁があり、両側ではそれぞれ一本の瑠璃門が配置されてあります。中院において東に焚帛炉、西に祭器亭があります。正殿が7室で、殿前では一つの突き出た台があり、東西にある配殿が5室で、裏寝祠も5室です。延床面積が3,000m2あまりに達します。民国三年に、北洋政府は裏寝祠で関羽と岳飛の塑像をともに祭るので、関岳廟と呼ばれ始めます。

广化寺

広化寺

广化寺位于什刹海北边的鸦儿胡同31号,是一座大型佛教寺院。广化寺始建于元代,传说是一高僧托钵化缘、筹措布施所建,寺亦因此得名。

広化寺は什刹海の北のほうにある鴉児胡同31号に位置する大型な仏教寺院です。この寺院は元の時代に建てられ、ある高僧が手に鉢を載せ布施を求めて建設のための資金調達をして(広い対象に化縁をして)、ゆえに広化と名付けられたのです。

银锭桥

銀錠橋

银锭桥位于后海与前海之间,烟袋斜街南端的南北向的单孔石拱桥,因形似银锭而得名。天气好的时候,站在银锭桥上可以观赏到西山的美景。1910年汪精卫在此谋刺摄政王载沣。这是北京最早的桥。

銀錠橋は後海と前海の間、煙袋斜通りの南口に位置する南北方向の単アーチ石橋であり、銀錠の形をしてるので銀錠橋と呼ばれます。天気がいい時、銀錠橋の上に立って西山の美しい景色が眼中に収められます。1910年に汪精衛は摂政王・載沣をここで暗殺することを図りました。銀錠橋は北京における初の橋でもあります。

汇通祠

匯通祠

汇通祠位于德胜门西大街甲60号。明永乐年间由姚广孝建,名法华寺,又名镇水观音庵。清乾隆二十六年(1761年)重修,赐名汇通祠。祠建在什刹海西海的一个小土山上,四面环水,北为水关。祠坐北朝南。依次有山门一间,前殿三间及东西配殿各三间,后楼三间前抱厦一间及左右耳房各三间,东西配殿各三间,匾曰“潮音普觉”和“功兼利济”。祠内有清乾隆二十六年(1761年)立石的乾隆皇帝御制诗碑。

匯通祠は徳勝門西大通り甲60号に位置します。当祠は明永楽年間に姚広孝によって建てられ、当時は法華寺と呼ばれ、同時に鎮水観音庵とも称されました。清乾隆二十六年(1761年)に再建され、匯通祠という名が賜われたのです。当祠は什刹海の西海にある一つの小さい土山の上に建てられ、四面が水に囲まれ、北のほうが水上の関門です。当祠は北を背にして南面し、順番に行くと山門一軒、前殿が3室、前殿の東西配殿がそれぞれ3室、裏楼が3室、前追加部屋1室、左右の付属部屋がそれぞれ3室、裏楼の東西配殿がそれぞれ3室で、「潮音普覚」と「功兼利済」と書かれた扁額が掲げられてあります。祠の中に清乾隆二十六年(1761年)に立てられた乾隆皇帝の真筆である詩句が刻まれた石碑があります。

棍贝子府

棍貝子府

棍贝子府位于新街口东街北侧,又称诚亲王(允祉)新府。《啸亭杂录》载:“诚亲王新府在蒋家房。”诚亲王旧府位于官园,因改赐慎郡王,故于蒋家房(新街口东街)建新府。雍正十年允祉卒后,其第七子弘暻继为府主。弘暻于雍正八年被封贝子,故此府又称固山贝子弘暻府(《宸垣识略》),清末至民国年间,此府被称棍贝子府。此府民国时期犹存。20世纪50年代改建北京积水潭医院,原有建筑绝大部分拆除,仅存三间卷棚歇山筒瓦顶的花厅,二幢硬山过垄脊的重楼,以及湖与假山。1989年8月1日,棍贝子府花园被列为西城区文物保护单位。

棍貝子府は新街口東通りの北側に位置し、誠親王(允祉)新府とも呼ばれます。『嘯亭雑録』によれば、「誠親王の新邸宅は蒋家房にある」という記載があります。誠親王の旧邸は官園に位置するが、その旧邸が慎郡王に賜われたので、蒋家房(新街口東通り)で新たな邸宅が建てられたのです。雍正十年に允祉が死んだあと、その第七番の息子である弘暻が府王の位を受け継ぎました。弘暻が雍正八年に貝子の号を賜われて、ゆえにこの王府が固山貝子弘暻府(『宸垣識略』)とも称され、清末から民国にかけて棍貝子府と呼ばれます。この邸宅が民国時代でも残されてきました。20世紀50年代に、ここで北京積水潭病院が建設され、もとの邸宅の大部分の建物が取り壊され、わずか3室の巻棚歇山筒屋根の花庁、2棟の硬山過壟脊の重楼、および湖と築山が保存されてきました。1989年8月1日、棍貝子府花園は西城区文物保護単位に入選されました。

涛贝勒府

涛貝勒府

涛贝勒府在西城区柳荫街27号,西城区重点保护文物。 这里原是康熙第十五子愉郡王王允嵎居住的愉王府,同治七年此府赐贝勒载滢,后载滢获罪,迁出此府光绪二十八年,醇贤亲王奕譞的第七子载涛过继给钟郡王奕詥为嗣,承袭贝勒爵,迁居于愉王府,作为贝勒府,称涛贝勒府。 现存古建筑约1000平方米。坐北朝南,有门东向。分中路和东路及西路。中路有四进院落,东路亦有四进院,后三进院为三合院。西路只有前后3排房子,西为戏楼。南为花园,有长廊、亭、花厅、假山等。1929年6月辅仁大学及附中设于涛贝勒府,原马圈及花园前空地建成辅仁大学主楼。涛贝勒府府邸改作原辅仁大学附中男生部校舍,1952年辅仁男中改为北京市第十三中学。

涛貝勒府は西城区柳蔭通り27号に位置し、西城区の重点保護文物に属します。ここは元々康熙帝の第十五番の息子である愉郡王・王允嵎が住む愉王府で、同治七年にこの邸宅が貝勒の載滢に賜われたが、のちに載滢が有罪のせいでこの邸宅から引越しされました。光緒二十八年に、醇賢親王・奕譞の第七番の息子である載涛が鐘郡王に養子として出されたので、したがって貝勒の爵位を受け継いで愉王府に移住して、そこを貝勒府として涛貝勒府と呼びます。現存する古代建物群の延床面積が約1,000m2です。邸宅は北を背にして南面し、東面する門もあります。全体的に中路、東路と西路という三つの主幹通路があり、中路と東路ではそれぞれ一直線に並んで繋がっている大院を持ち、裏のほうにある三つの大院が三合院になります。西路では前後3列の部屋のみあります。邸宅の西のほうが劇楼で、南のほうが花園で、長い回廊、亭、花庁、築山なども配置されてあります。1929年6月に涛貝勒府で補仁大学および付属中学は設立され、元の馬小屋と花園の前にある空き地で大学の主講義棟が建てられました。一方、涛貝勒府の邸宅は元補仁大学付属中学男生部の校舎に改築されました。1952年に、補仁男子中学は北京市第十三中学に変更されました。

醇亲王府

醇親王府

醇亲王府位于后海北沿,前身是清初大学士明珠的宅第。乾隆五十四年封其十一子永理为成亲王,并将明珠府赐永理。随即按王府规制改建。此府传至毓橚时,被赐予醇亲王奕譞。奕譞的原王府在西城区太平湖东里(今中央音乐学院)。因光绪帝生于此府,成为潜邸,故光绪继位后醇王必须迁出。为区别,醇王原在太平湖的王府称南府,后海北沿的新王府称北府。北府坐北朝南。西部为王府花园,1949年后,进行了整治,是宋庆龄在京的住所(见宋庆龄故居)。东部是王府本身,分为东、中、西三路。中路是其主体建筑,自南而北,街门5间。1910年汪精卫等在此附近策划炸摄政王,一时轰动全国。醇王府的一部分现为宋庆龄故居。

醇親王府は後海の北岸一帯に位置し、その前身が清初の大学士・明珠の邸宅です。乾隆五十四年に、乾隆帝がその第十一番の息子である永理に成親王の爵位を賜った同時に、明珠府も当人に賜ったのです。そしてこの邸宅は王府の仕様に沿って改築され、のちに毓橚に伝われた際、また醇親王・奕譞に賜われました。奕譞のもとの王府は西城区太平湖東里(今の中央音楽学院)にあります。光緒帝がそこで生まれたので、その邸宅も潜邸になり、光緒が皇位を受け継いたあと、醇親王がその邸宅からほかの場所に移住しなければならなかったのです。区別をつけるために、太平湖に位置する醇親王の元王府が南府、後海の北岸一帯にある新王府が北府と称されます。北府は北を背にして南面し、西のほうが王府の花園になり、1949年後、整備が行われて、宋慶齢が北京における住所となりました(宋慶齢旧居に参照)。東のほうが王府の主体で、東、中、西の三路に分けられます。中路はその主体建物であり、南から北にいくと通りに面して五つの門があります。1910年に、汪精衛はこのあたりで摂政汪の暗殺を企んでいて、全国を驚かされました。醇親王府の一部は現在、宋慶齢旧居として知られています。

烟袋斜街

煙袋斜通り

烟袋斜街在地安门以北,鼓楼前脸儿,有一条北京城最老的斜街,名叫烟袋斜街。这条街东北西南走向,大概有三百米长。当年,住在北城一带的旗人大都有抽旱烟或水烟的嗜好,于是城里的烟叶行业就发展起来了。

煙袋斜通りは地安門の北のほうに位置します。鼓楼の前では北京における一番歴史の長い斜通りである煙袋斜通りがあります。この通りは北東―南西方向でおよそ300mの長さがあります。昔、北城のあたりに住む八旗の人が大体刻みタバコか水タバコを吸う趣味があるので、城内のタバコ業界がますます成長していきました。

梅兰芳故居

梅蘭芳旧居

梅兰芳故居位于西城区护国寺街9号的梅兰芳故居,原为庆亲王府的一部分。

梅蘭芳旧居は西城区護国寺通り9号に位置し、元々が慶親王府の一部です。

郭沫若故居

郭沫若旧居

郭沫若故居位于什刹海西岸前海西街18号,原是恭王府的马号,郭沫若于1963年至1978年逝世前在这里居住了15年。这里是一处环境非常好的四合院,在名人故居中除了宋庆龄故居外,是比较好的一处四合院。

郭沫若旧居は什刹海の西岸にある前海西通り18号に位置し、元々が恭王府の馬小屋です。郭沫若は1963年から1978年の死去までここで15年住んでいました。ここはかなり環境のいい四合院で、名人の旧居というと宋慶齢旧居を除けばここを勝つものはないです。

宋庆龄故居

宋慶齢旧居

宋庆龄故居原是清醇亲王载沣的府邸花园,位于北京西城区后海北沿46号。这是一处典型的中国式庭院,幽静的园内假山叠翠,花木成荫,清澈的湖水,曲折环绕。新中国成立后,党和政府原计划为宋庆龄在北京专门修建一座住宅,但她却以国事百废待兴,一再逊谢。最后在周总理的亲自过问下,才借此王府花园,葺旧更新。宋庆龄于1963年迁居于此,在这里工作、学习和生活了近20年直至1981年7月29日逝世。

宋慶齢旧居は元々清醇親王載沣の邸宅の花園で北京西城区後海北岸の46号に位置します。ここは典型的な中国式庭園に属し、しんと静まり返った園内では蘚苔に覆われる築山が畳んで、植物が繁ていて、湖水が透き通って、建物の配置が迂回曲折になります。新中国が成立された後、共産党と政府によって北京で宋慶齢に専用の住宅を建設することが計画されたが、国家にとって各方面も見直される必要があるという理由で本人に再三断られたのです。結局周総理の指示で、代替案としてこの王府の花園を補修しここで住むことになりました。宋慶齢は1963年にここに移住し、それから20年にわたり1981年7月29日の逝去までここで事務を取り扱ったり勉強と生活をしたりしました。

地址:北京市西城区羊房胡同

住所:北京市西城区羊房胡同

交通信息

交通情報

乘坐地铁6号线到北海北站下车或乘坐5、60、107、124路等公交车到鼓楼站下车。乘坐13、107、111、118、609、623路在北海北门下车,沿着前海向北步行可到达。

地下鉄6号線に乗車し北海北駅で下車。またはバス5、60、107、124路などに乗って鼓楼駅で下車。バス13、107、111、118、609、623路に乗って北海北門で下車、前海に沿って北に向いて徒歩すぐ。

文・北京旅行網

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